さんの書評2017/04/08

マチネの終わりに

マチネの終わりに
孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ちえないということ。持ち得なったと知ること。-同時代にする水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力、それが、他者の存在のどこを探ってみても、見いだせないこということ。

自由意志というのは、未来に対してはなくてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。しかし、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来るはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。

グローバル化されたこの世界の巨大なシステムは、人間の不確定性を出来るだけ縮減して、予測的に織り込みながら、ただ、遅延なく機能し続けることだけを目的にしている。紛争でさえ、当然起きることとして前提としながら。前項にせよ、悪行にせよ、人間一人の影響力が、社会全体の中で、一体何にあるって。

その本の作者 平野 啓一郎さんの過去の著書「私とは何か――「個人」から「分人」へ」を図らずも読んでおり、そこに書かれた分人化という概念、つまり自分は他者を映した人格である。相手により自分が形成され、その他人を触媒にした自分。結局、自分も他人を触媒にした人格を映し出す触媒である。という考え方を踏まえたうえでこの物語は考察する必要があると考える。
主人公である蒔野は天才バイオリニストであり、ヒロインの洋子は3か国語を操る才女でジャーナリストの二人が織りなす、悲劇的な運命劇である。つまりは性格劇ではない物語が非常に綺麗な日本語でうまく描き出されている。
この本にも記載されているが、「古典悲劇が運命劇であるに対して、近代の悲劇は性格劇である」というものを表したもので、古典悲劇への回顧とも考えられる。
つまり、蒔野のバックグランドが天才バイオリニストであることを始まりとしていない。
洋子も才女である必要はなかった。
しかし、大人になってから多くのものが感じる恋愛に対する考えやいつの間に内に芽生えた過去への悔恨を抉り出し、他者を映す触媒としてこの物語を紡ぎ、運命劇を作り出すためにはどうしても平凡な人物では不足が生じてしまうため、やむ得ずそのような人物として描き出した必然を感じた。
上記に示した文章をどれだけの人が考え、言葉にできるのか?それはそれなりのバックグランドを時代が要求するであろう。
またこの物語で語られる「大人の恋愛」、つまり相手の容姿に対する満足などを超えた「自然と同じ目線」であることの居心地の良さ。自分を他者に映したときに過不足を感ずることのない分人としての相手、それは何よりも尊いものに映り、愛しむものとなる。
過去に自分にも同じような恋愛を体験していたため、蒔野の気持ちが痛いほど心に染み入り、修復した思い、考えないようにしていた心に綻びを生じさせるものであった。
もう二度と手に入らないのだろうかと悩んだ日々も懐かしみながらも、内より染み出す抑えられない感情は如何ともしがたいもので、前を向かなければならない重い頭も持て余してしまう。
但し、この物語でも描かれていたが蒔野は洋子でなくても蒔野であり続けたことは周りの視点からすればそれはそれで蒔野であり、必ずしも悲劇ではない。むしろ悲劇には決して映らない。
最後に再会する二人は何を語り、何をお互いを触媒にして見るのであろうか
最後まで十分に読み応えのある心に刺さる物語であった。
素晴らしい。

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