紹介
「奥歯の小さな穴ひとつにこころが詰まっている」
病気になると私たちは、そのことでこころが一杯になってしまいます。
そんな“からだの傷み”に溢れてしまった時、私たちは、
その現実を受け入れて立ち向かおうとするこころを、どこに得ることができるでしょう?
からだの傷みから沁み出る“こころの痛み”。
その苦悩をいっしょに理解しようとしてくれる人がどこかに居てくれると、
奥歯の穴という「とてつもない不幸」が、なんとか抱えられる不幸になる。
そんな経験を私たちは皆、もっているのではないでしょうか?
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それでは、目の前に「こんがらがった苦しみ」にさいなまれている人が居るとき、
私たちには何ができるでしょう?
苦しみへの寄り添い方として、巷ではいろいろなアプローチが紹介されていますが、
この本では、新しい《共感》の可能性を、読者とともに捜します。
“記憶のはるか彼方にある情景”が浮かびあがり、その情景が二人のあいだで共有されるとき、
《生きづらさ》を生きる力が得られる。
——そうしたテーマをめぐって紡がれた
『からだの病いとこころの痛み』〔木立の文庫, 2019年〕のエッセンスを、
「四人」とのあいだの“内なるドキュメンタリー”として物語るのが、この本です。
目次
プロローグ:記憶の彼方に秘められた……
第一話 明日香
名づけられなかった声
第二話 みちる
絶たれた声
第三話 真 紀
出てこない声
第四話 理 香
寄る辺ない声
エピローグ:秘められた体験に耳を傾ける
前書きなど
〈まえがき〉より...
みなさんも、病気になられたことがあるでしょう。病気を抱えながら懸命に日々を暮らしておられる方もいらっしゃるでしょう。
病気になると、こころも元気がなくなります。身体の痛みやしびれ、倦怠感、その他さまざまな不調が続くと、こころも、そのことばかりを考えるようになり、不安に押しつぶされそうになります。自分の身体の状態にばかり関心が向いて、他の人や他のことについては、ほとんど考えられなくなるのです。
そのようななかでも、他の人が自分の病苦や痛みや恐怖に対して関心を向けてくれる時には、少しばかりその人に応じることができますが、そうでない時には、「自分の苦しみを誰もわかってくれない」と、こころを閉ざしてしまうことになります
かつてW・ブッシュという人が、歯痛を患った自分の姿について、こう言ったそうです。「奥歯の小さな穴ひとつに心が詰まっている」〔Freud, S., 1914, p.128〕。
そんな風に、病気になると私たちは病気のことでこころが一杯になってしまうのです。
不思議なことに、何かのきっかけでこころが元気になってくると、病気も少し良くなったりします。自分の病気について知り、治すための工夫や努力をしようと思えたりするでしょう。完全には治らない病気であれば、どうすればそれを抱えつつ人生を有意義に過ごせるかを考えるでしょう。
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こころと身体はそれだけ密接に関わっているといえます。
病気に罹った時にこころを平静に保つのは、とても難しいことです。瞬時にその現実を受けとめ、自分や家族のそれから後のことを冷静に考えられる人は、稀なのではないでしょうか。病気になったとき、絶望や不安や恐怖がこころを襲います。どうなっていくんだろう。信じられない。なかったことにしたい。どうして自分がこんなに苦しまなくてはならないのか。死んでしまうんじゃないか。こんな状態で生きていけない。
そう思います。
家族もそうです。
たいてい医師は、患者を前に淡々と検査の結果を示し、診断し、病状と予後を説明し、治療方針や、代替治療を示します。そして、これから患者が受けようとする医療行為について、その目的・方法・結果・危険性などを説明して、患者の同意を得ます。その時、患者やその家族は、説明する医師の声を聞きながら、こころのなかでさまざまな思いを抱くでしょう。その後も、病気を抱え闘病しながら日々こころが揺らぎます。
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では、病気があるとわかった時、その現実を受け入れ、立ち向かおうとするこころはどのように得られるものなのでしょうか。
そこには何が必要なのでしょうか。
それは、一緒になって、病気を抱え苦悩する自分を理解しようとしてくれる、そんな人が一人でもいてくれることだと私は思うのです。そうすれば、病気を抱える人は、自分の状態を正しく理解し、病気に立ち向かうこころをもつことができるのではないか。病気を得るという不幸が、とてつもない不幸にならないで、抱えやすくなるのではないか。そんな風に思うのです。
言い換えれば、病気をもつ人やその家族にとってのいちばんの苦しみは、その不安や苦悩を「理解されない」ことにあるのではないだろうか……。