目次
はじめに
1〈講演〉「戦後」を超えて 白井 聡
2〈講演〉六面体としての憲法9条 君島 東彦
3〈対談〉平和のつくり方 白井 聡 × 君島 東彦 [司会]西村 秀樹
前書きなど
戦争は平和である
自由は屈従である
無知は力である
記憶の底から、そんな言葉が甦ってくる。英国の作家、ジョージ・オーウェルの未来小説『1984年』(1949年刊)で描かれた全体主義国家のスローガンだ。そこでは「平和省」が戦争を担当し、報道や教育、娯楽、芸術はすべて「真理省」の管轄に置かれている。すべての「真実」が国家の管理下におかれ、政府に不都合な歴史的な事実、統計などは消去、変造される。個人が過去を正しく記憶したり、反省したりすれば、「思想犯罪」にひっかかる。
今年3月、「平和安全法制」が施行された。平和を守るために軍事力を強化し、集団的自衛権の行使を可能にする。いや、専守防衛という従来の方針から逸脱しており、他国との交戦への道を開き、平和が守れなくなる。そのような論議は十分に尽くされないまま、「平和」を掲げた〈戦争法〉ともいわれる「平和安全法制」は既成事実化した。「平和」と「戦争」はいつしか矛盾することでなくなっている。
国民のための国家ではなく、国家のための国民なのか。憲法「改正」論議のなかで、日本の歴史、伝統、家族がひときわ重視され、思想、表現の自由や知る権利をめぐる制約がかけられつつある。政治家の暴走、暴言、退廃も目立ち、「反知性主義」が横行しているかのようだ。この国の姿はどこか「オーウェル的な世界」に似てきてはいないか。私たちはいま、しっかりと「国のかたち」に目を凝らすときなのに、本当に見るべきものを見ているのだろうか。
そんな思いを抱いていた今年2月、日本平和学会会長で立命館大学国際関係学部教授(現・同学部長、憲法)の君島東彦さんを囲む機会があった。戦後、平和問題がもっぱら憲法論(解釈論、改正論、擁護論)として論じられてきたが、安全保障の構想や政策ぬきに成り立たないのではないか。世界全体の現状・構造から出発して憲法9条を位置づけなければならない、という君島さんの立論はとても新鮮だった。
その君島さんに『永続敗戦論』(太田出版)で話題を呼んだ京都精華大学専任講師(政治学)の白井聡さんと対談してもらったら、面白いのではないか。リベラル派の論客として注目を浴びている白井さんは、これにどう応えるのだろうか。激しく火花が散れば、そこから新しい視野が開けるかもしれない。その懇談の場に同席していた永澄憲史さん(京都新聞OB)も西村秀樹さん(毎日放送OB)も同じ思いで、お二人の公開対談の実現にこぎつけた。
この講演のなかで白井さんは、日本の戦後は先の大戦の「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、「敗戦」した事実を否認して、日米従属の体制を永続化していると指摘。「3・11」の原発事故を含め、「目にしたくない事実を見ようとしない」日本の政治の姿を鋭く告発した。そして憲法解釈の変更(2014年7月1日閣議決定)を踏まえ、7月の参議院選挙のあと―国家緊急事態条項(主に災害対応)の追加による部分改憲-「有事」の発生・憲法停止-自民党改憲草案への改憲、という「憲法改正」への見通しを語った。
君島さんは、平和論を憲法9条から始めることの限界を指摘したうえで、①ワシントンから②大日本帝国から③日本の民衆から④沖縄から⑤東アジアから⑥世界の民衆から、という6つの視点から多面的に位置づける「六面体の憲法9条」論を展開した。
近年、リベラルの側からも、専守防衛の自衛隊を明確に位置づける「平和のための新9条論」という改憲論が提起されている。これに対して君島さんは政府に自衛隊の武力行使について説明責任を負わせる規定として「9条2項」の意味を語り、「私たちはどこまでも9条と自衛隊の矛盾に耐えるべきだ」として改憲に反対の立場を強調。そのうえで憲法の平和主義を掲げ、市民やNGO(非政府組織)などによる国際交流の活動に期待を述べた。
いま、米国では「トランプ現象」が広がり、英国はEU離脱の道を選び、世界は激しく揺れている。グローバル化の果てに深刻化する経済格差、同時に「ポピュリズム(大衆迎合主義)」と「国家」が露出してきている。政権指導者が「必ず守る」と言明した「約束」も「新しい判断」という言葉で簡単にひっくり返る日本の政治状況にも、より厳しく凝視しなくてならない。
この本で熱く語られている内容は、世界の中の日本、現代の政治を考えるうえで多くの示唆を含んでいる。まずは若い人たちに、日本の現代政治を考えるための手引きとして読んでいただきたい。