目次
序
理論編 心理的プリファレンス理論と音の時間的・空間的基礎感覚
1 歴史的背景と展望
2 音の物理特性
3 音場の物理的ファクター
4 聴覚路中の相関メカニズム
5 ホール音場の心理的プリファレンス実験と理論
6 大脳半球の専門化と心理的プリファレンスに対応したアルファー波
7 聴覚-大脳系のモデル
8 ACFファクターにもとづく音の時間的基礎感覚
9 IACFファクターにもとづく音の空間的基礎感覚
応用編 ホールの音響設計と音楽の時間的・空間的表現
10 ホール音場の設計手順と目標
11 デザイン・スタディ
12 実在のホールにおけるプリファレンス理論の検証
13 聴者のプリファレンスと座席の選定
14 チェロ演奏者のプリファレンス
15 ステージ上の演奏位置の決定
16 作曲と演奏における時間的・空間的音楽表現
17 コミュニケーション
18 おわりに──個性発見のために
付録
1 ランニングACFの計算式
2 たたみ込み積分の概念
3 一対比較法
4 2つの複合音によるビート
5 調律したピアノのピッチ計測
6 音声認識システムの提案
7 森の響き(霧島神宮)
8 音場の計測の心理評価システム
9 揺らぎのある点滅光源の心理的プリファレンス
理論編 参考文献
応用編 参考文献
索引
前書きなど
コンサートホールの音響学は科学と芸術の融合の場である。奥深い芸術としての音楽それ自体を科学することは不可能に近い。しかし,お互いに刺激し合い昇華することはできる。音楽は作曲者と演奏者,それにホールがもつ特有の音場と,聴者ひとりひとりの感性によって生きるのである。優れた空間的特性をもつコンサートホールによって,聴者ひとりひとりの心を“やさしく包み”,その音場の時間的特性に合った選曲と演奏によってホール(第2の楽器)が“快く響く”とき,喜びが沸き上がる。
理論編:心理的プリファレンス理論と音の時間的・空間的基礎感覚
筆者は35歳頃まで,音響における聴覚心理は,聴覚の末梢でのスペクトル解析に立脚すべきであると信じていた。筆者によるコンサートホール音響学の研究は,その後,単一の反射音から成る最も単純な音場の研究から始まった。なぜなら,無数にある反射音の集合から成るホール音場のもとは,この最も単純な音場であり,重要な謎はそこに含まれると考えたからである。1975年から通算3年間ほど滞在した西ドイツのゲッティンゲン大学第3物理学研究所において,その反射音の遅れ時間だけを変化させて心理的にプリファレンス(好み)が最大になる遅れ時間を実験したところ,スペクトル解析ではまったく説明することができなかった。実験の結果,ついに音源の自己相関関数の有効継続時間と関係することがわかった。この事実を発見したとき,筆者は聴覚路中に相関メカニズムが存在することを実感(仮説)した。やがて,聴覚路中に相関メカニズムがあることが明らかになり,そこから心理反応と直接に関わるファクターが抽出されて,ヒトの新たな能力が発掘され始めている。
最終的に,神経活動に裏打ちされた聴覚-大脳システムのモデルとコンサートホール音場の心理的プリファレンス理論が確立された。この理論が基礎となって,視覚的環境を含む環境全般の設計理論へと展開されている。一般的に,心理的プリファレンス(好み)は生物の原始的反応であるため,必然的にその判断は生命維持の方向となる。したがって,コンサートホールでは音楽を聴くことによって心身ともに元気になるようにすべてが整えられなければならない。そのためにおこなわれた心理的プリファレンスにかかわる大脳活動の研究は,一対比較の方法を採用することによって鮮明になった。好ましい条件下では,大脳から発生するアルファー波は時間的な繰り返し成分が増し,また大脳全体にも広がっていく様子が観測されている(第6.6節~第6.8節)。本モデルは自己相関関数(ACF)と両耳間相互相関関数(IACF)のメカニズムで構成されて,いわゆる“相対性”を物語っている。ACFメカニズムでは,それぞれの聴覚で音響信号の時間的パターンにおける神経活動が立証された。またIACFに関する実験で両耳に到来する音波の相関メカニズムの存在が確認された。Hermann von Helmholtz(1821~1894)以来,音波のスペクトル解析が主流であったが,スペクトルからは心理的反応を“適確かつ明確”に説明する“手がかり”は抽出されなかった。
本理論によると音場の心理的プリファレンス尺度値は,4つの直交したファクターで説明される。その4つの直交したファクターは,2つの時間的ファクター,「直接音が到来した後の最も強い反射音の遅れ時間Δt1」と「後続残響時間Tsub」である。両方とも左大脳半球で優位に処理されている。また2つの空間的ファクターは,バイノーラルの聴取音圧レベルLLと両耳の相互相関度IACCで,これらは右大脳半球で優位に処理されている。
また,本理論では音の3要素(大きさ・ピッチ・音色)は,実は4つの時間的基礎感覚(大きさ・ピッチ・音色・心理的継続時間)と3つの空間的基礎感覚(音の定位・見かけの幅・拡がり感)に分類される。応用編:ホールの音響設計と音楽の時間的・空間的表現
心理的プリファレンス理論による音響コンサートホールの音響設計法と設計例について具体的に述べる。設計された代表的なホールは霧島国際音楽ホール(みやまコンセール)で1994年に開館された。毎年開催される国際音楽祭でウィーンから来た音楽家にも人気を博している。次に,このホールに導入された聴者ひとりひとりのプリファレンス検査室と座席の選定システムについて述べる。また,演奏者ひとりひとりの演奏しやすい反射音のプリファレンスについてふれる。心理的プリファレンス理論の検証は,既存のホールで確認された。
“第2の楽器”としての特性をいかに引き出すか,新たな創造へ向かって,時間的・空間的表現法についてわかりやすく述べる。時間的表現は,たとえていうとモーツァルトの音楽は宮廷の客間があったから生まれたふしがある。けっして教会のような残響の長い大空間から生まれたものではなく,また残響の短い小さな空間をイメージしたものでもない。また,ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番通称《月光》第1楽章は,作曲家自身が意図したわけではないようだが,聴く者にとっては広大で静かな夜の風景をイメージさせる重低音,その澄みわたった空にそそぐ月光を想わせる高い周波数成分から構成されており,結果的には空間的表現の優れた例となっている。
演奏にさいしては,まずホール音響と融合する選曲をする必要がある。さらにステージ上のどこが演奏しやすいか,同時に聴衆に効果的か空間的表現(IACC)が最大限発揮できる位置かを言及する。与えられたホールの時間ファクターと融合する演奏法はいかにあるべきか具体的に述べる。このようにして,ホールを第2の楽器としてとらえ,聴者の心が“やさしく包まれる”空間的表現と,“快く響く”時間的表現とによって音楽を昇華できる。
このような音楽の時間的表現と空間的表現の実現を通じて,読者がさらなる創造をしていく手助けとなればこのうえない喜びである。なお,すべてのヒトが末永くそして健やかで音楽性のある生活を実現するために,建築・環境の時間設計に関する国際学術誌が2001年に創刊されている。
対象とされる読者
本書では数式を必要最小限にとどめ,なるべく図表で説明することを心がけた。演奏者をはじめ作曲者,楽器製作者,音楽監督,サウンド・コーディネーター(各ホールの学芸員),音響設計者,音響技術者,建築設計者,オーディオ技術者,さらに音声学,心理学,生理学,医学を含む一般の科学者や技術者,学生などを対象として書かれている。一般の方々の科学と芸術における創造性を高めるためにも役立つと思う。なお,本書において説明不充分なところは文献を検索できるようにしたので,何がどこまで明らかにされているかを確かめることができる。読み進むうちに,新たに沸き上がる疑問に取り組むきっかけのひとつともなれば幸いである。