目次
序 説
わたしたちと近代の体育・スポーツ—「二一世紀オリンピズム」を求めて—(山本徳郎)
〔身体論に学ぶ〕
「筋肉的キリスト教」の波紋—明治、大正期日本におけるヒューズとキングズリ作品の翻訳動向を手がかりとして—(阿部生雄)
ヴィヨームの性教育論—自慰と子ども—(西村美佳)
スポーツと「俘虜—人間の遊戯性を求めて(山田理恵)
「生きるからだ」再考—「同意の文化」を超えて、今への提言—(池田恵子・辻井文絵)
三島由紀夫の身体運動と言語表現の試みに関する考察(森美佐紀)
〔身体教育の歴史に学ぶ〕
イギリス初等教育草創期におけるマシアス・ロースの身体教育論と体育必修化の主(榊原浩晃)
生徒作文に書かれた明治三〇年代の運動会—明治期金沢市内生徒作文から—(大久保英哲)
大学での体育・スポーツ史料室を用いた教育と研究の展開—高師泳法と金栗選手後援会—(真田 久)
近代中国の学校教育課程における武術の導入とその展開(林伯原)
アメリカ教育使節団員チャールズ・H・マックロイ—その体育論と改革構想—(中村哲夫)
日本における女子体育教師数と役割の変遷(掛水通子)
〔スポーツの歴史に学ぶ〕
ドイツ中世後期の「トーナメント規則」に関する一考察—ヴュルツブルクのトーナメント規則(一四七九年)—(楠戸一彦)
ドイツ初期協会運動の性格と役割—一九世紀前半の西南ドイツを中心に—(有賀郁敏)
第三回労働者オリンピアード論の盲点—赤色スポーツ・インターナショナル・プラハ書記局の排除—(功刀俊雄)
レルヒによる一九一一年の日本からオーストリア・ハンガリー帝國国防省への報告(新井 博)
昭和初期の少年雑誌にみる運動小説—スポーツのナラティヴとスポーツ少年の登場—(小石原美保)
松本幸雄に関する一考察—昭和前半期におけるバスケットボールの歴史—(及川佑介)
スポーツ固有法と国家法の衝突—障害をもつ者の競技参加と競技ルールの変更—(井上洋一)
ミャンマーにおけるスポーツ行政組織とスポーツの機能(時本識資)
社会人野球における攻撃戦術の変容—木製バットの導入を中心として—(福井 元)
前書きなど
本書の書名をなんとなく考えていたとき、今年はじめに、雑誌『情況』(第3期第7巻第1号)の巻頭シンポジオン「身体の未来について」のなかで言われていた「多様な身体を目覚めさせる活動」という言葉に出会い、書名が浮かび上がった。
グーツムーツをはじめ近代の体育やスポーツは、フーコー流に言えば如何にも「生産する身体」「服従する身体」として画一化される方向へ収斂するような訓練を施してきた。そこでの訓練は、カント(『教育学講義』)に代表されるように、フマニタス(人間性)の邪魔になるアニマリタス(動物性)を抑制したり除去したりすることであった。つまり人間の根源である自然性、動物性を否定することを目的としていたのである。
近代社会の人間は、このような訓練のもとで「人間は死んだ」「人間の終焉」と言われる状況が作り出されてきた。このことへの反省を込め、われわれは二一世紀の新しい試みを模索しながら、人間を再び個性豊かな生あるものへとする可能性を探らなければならない。
本書の著者たちにたいして、問題意識を統一するようなことはなされていない。しかし現実にたいして生々しい疑問を抱く著者たちであるので、それぞれが描く各自の専門領域の訓練の様相から、われわれは人間身体の多様性、つまり多様な人間への形成可能性を垣間見ることができるのではないだろうか。 「表題への思い」(山本徳郎)