前書きなど
まえがき──教育研究者、教育行政のただなかを観る
太平洋戦争敗戦後の1947(昭和22)年に始まる新しい学校制度のもと、翌48(昭和23)年に教育委員会法が公布されスタートしたわが国の教育委員会制度もすでに70年を経過した。教育委員会の発足とともにすべての都道府県と市町村に教育長が置かれることになり現在に至るが、これまで教育学の研究者として大学で長く仕事をし、助教授・教授として教育に携わりつつ管理職を務め、しかも最後は学長も経験したという人間が地方の小さな村の教育長を務めたという事例は、わが国の教育の歴史の中でも、間違いなく例外中の例外といっていい。管見ながら、唯一の例として記憶の中にあるのは大阪教育大学の学長から奈良県香芝市の教育長に転じた中谷彪氏のみである。
茨城県にある2つの村の一つ美浦村という人口1万7000人ほどの村の教育長を引き受けることになったいきさつは序章でやや詳しく書いているが、前歴が大学の教授でしかも学長まで経験した研究者が教育長に就任したということで私は就任直後から〝異色の教育長〟と見られることになった。地元の学校で長く教員を務め、校長になり定年を迎え、その後人柄を見込まれ教育長に就任するというのが現在の教育長の大半である。その中にあって、教育研究者がストレートに教育行政の只中に入り教育長としての業務を全うし指揮を執るというのは極めて稀なこと。こうしたことは望んでもできない貴重な経験である。
であれば、めったにできない貴重な経験を記録として残し、わが国の教育を考える共通の素材にしなければならないのではないか。研究者教育長としてわが国の教育行政の只中で直接見たことや実際に経験したことをできるだけ正確に記録し学会の共有財産にすべきではないか。在任中のほぼ6年間、教育長としての任務を全うしながら、私はできるだけわが国の教育行政が作動する実際とその中で任務を果たしている教員を参与観察することに努めてきた。そして、その結果を一冊の本にまとめることが、かつて日本教育社会学会の会長を務め、加えて日本教師教育学会の会長を経験したものとしての責務でもあろうと考えてきた。そうした意図がどれだけ成功したかは読者の判断を待つしかないが、外部からはなかなか見えない教育長の仕事の中身や任務や権限がどんなものか、また教育長に期待される役割やなすべき責務についてその一端を明らかにすることはできたのではないかと思っている。
本書は大きく3章に分けて構成してある。第1章は教育長としての日常的な業務がどんなものかを紹介すると同時に、私が美浦村の教育長として6年間実際にやってきたことやそのような教育を行うことにした思想的背景や考え方についても語っている。
第2章は教育長在任中に新聞や雑誌や書籍を通して教育長として社会に発信した発言の中から数点転載した。在任中に求められ寄稿した文章はかなりの数に上り大小取り混ぜ100点ほどになる。その中から、安倍政権の教育施策に対する批判も含め、現時点で論議が交わされているホットなテーマについて率直な考えを述べたものを数点選んだ。そうしたテーマを敢えて選んだのは全国に1800人ほどいる教育長たちのほとんどが、現今重要な争点になっている安全保障法や憲法改正問題や主権者教育や共謀罪法など諸々の政治的な問題にまったく口を閉ざし発言していないからである。腹を括れば、たとえ現役の教育長であっても、この程度の発言はできるということを実例をもって示したかったからである。多くの教育長たちに転載した寄稿文をしっかり読んでほしいと思っている。
第3章は、教育長として参与観察して見えてきた現時点での教育行政と教員社会と教職員組合の実態について、私なりの分析や見方を率直に書いた個所である。わが国の教育行政は今やどこから見ても文科省を頂点とする縦の指示命令系統が、例えていえば、蟻の這い出る隙間もないほどに完璧に出来上がっている。そうした現状の中にあって、果たしてわが国の学校教育や教育行政のあり方を変え改良する可能性はあるのか。なかなか難しいというのが正直な認識であるが、私なりの教育長体験を踏まえて、少しばかりの提案や注文や期待を書いてみた。わが国の教育刷新への緩やかな進言が終章の内容である。とりわけ教員への注文が多くなっているのは、教師たちへの期待が大きいからである。戦後わずか70年を経ただけで再び教え子を戦場に送りかねない状況になっている昨今、とりわけ若い教師たちの教育専門職者としての自覚と矜持と、それにおかしいことはおかしいと声を上げる覚悟が問われていると思うからである。
本書の3章を通して、私が本書に込めた共通のメッセージをお読み取りいただき、今後に活かしていただければありがたく思う。