前書きなど
語り部として
人には絶対に忘れられない出来事があります。私にとっては、二〇一一年三月一一日の東日本大震災と同時に起きた福島第一原子力発電所事故がそれです。私が総理の時に起きた福島原発事故は日本の存亡にかかわる最大級の危機であり、今もなお危機は継続しています。事故発生から数日のことをあらためて思い起こし、その後明らかになった当時の原子炉の状況と突き合せてみると、今でも身の毛がよだちます。
事故の拡大は当時の認識以上に早く、地震発生からわずか四時間後、午後七時には東日本を中心に、国土の三分の一の領土が放射能で「占領」される危機が迫っていたことが分かっています。この事実を忘れてはなりません。まず、三月一一日の午後七時ごろには福島原発一号機の原子炉圧力容器内の水が蒸発して無くなり、核燃料が溶融するメルトダウンを起こしました。引き続いて溶融した核燃料は厚さ二〇センチの圧力容器の底を溶かして穴を開け、圧力容器の外に溶融した核燃料が流れ出るという世界で初めてのメルトスルー事故となりました。流れ出た核燃料が圧力容器を包み込むように設けられている格納容器の外まで出ていれば、東京を含む東日本は何十年も人が住めなくなる最悪の事態となっていました。事故対策マニュアルにない消防ポンプによる圧力容器への注水が、底部の穴を通して格納容器の底にたまった溶けた核燃料の上に降り注いだ結果、核燃料が冷えて固まり、かろうじて格納容器内に留まったことによって、最悪の事態は避けられました。
しかし、その後も事故は拡大し、一一日の地震発生から一五日までのわずか一〇〇時間の間に一号機、二号機、三号機のメルトダウン、メルトスルーさらに一、三、四号機の水素爆発、二号機の破損と続き、さらに四号機横の使用済み燃料プールの水が無くなることによるメルトダウンの危機も重なりました。事故現場の人々の本当に命がけの努力と、それに加えて、いくつかの幸運な偶然という「神のご加護」があって、紙一重で東京を含む五〇〇〇万人の避難が必要となる最悪の事態は回避されました。
このような歴史上最も過酷な福島原発事故を日本人は全員で体験しました。私は総理として福島原発事故に直面し、その渦中に身を置き、日本という国が成り立たなくなるという、本当の意味での恐怖を感じました。その思いは今も変わることなく私の体の中にとどまっています。
福島原発事故が発生して三年近くが経過した今も、多くの人々が避難生活を余儀なくされており、福島原発事故自体も汚染水の拡大など、終息には程遠い状態です。多くの人は福島原発事故を忘れてはいません。しかし、政治家や大企業経営者のかなりの人たちが、福島原発事故が存在しなかったかのような発言をし、原発再稼働や新設に向けて動き出しています。私には全く理解できません。目の前の経済的利益を考えて、将来に大きな禍根を残そうとしているとしか思えません。戦争にしろ、原発事故にしろ、忘れることが再度惨禍を引き起こすことにつながることを歴史は教えています。
総理を退任してから、国内はもとより、アメリカ、台湾など各地で当時の体験を話しています。それはあの原発事故に総理として直面した私の「語り部」としての義務だと考えたからです。多くの人と福島原発事故の体験を共有し、二度と原発事故を起こさないためには「原発ゼロ」しかないということを伝えたいからです。
この本は私の原発事故体験、原発ゼロへの取り組み、自然エネルギー拡大などに関する講演をまとめたものです。それに、公開の席で行われた国会事故調査委員会の私に対する質疑の議事録もそのまま載せました。私に対してかなり厳しい質問が続きましたが、内容をよく読んでいただければ、やり取りの中から客観的な事実が見えてくると思います。
福島原発事故を忘れないこと、それが原発ゼロへの出発点です。
今回の出版でも、長年の友人、中川右介君にはお世話になりました。ありがとう。そして、いろいろ協力してくれる妻・伸子にも感謝。
二〇一四年二月一日 菅 直人