目次
1章 耳をすまそう
1当事者としての子どもによりそうために
2大人の不安定は子どもの不安
2章 大切な人を亡くすこと
3章 子どものグリーフ
1子どもの死の理解
2大切な人を亡くした時の子どもの反応
3死因ごとの死別の特徴
4子どもの悲嘆を複雑にする要因
4章 子どものグリーフサポート
1 死別が子どもに与える影響
2 子どものグリーフサポートの必要性
3 グリーフサポートとは
~カウンセリングやトラウマケアとの違い~
4 グリーフサポートの実際
5章 子どものグリーフをサポートするために大事にしたい19のこと
6章 おわりにかえて~誰でもみんな永遠の子ども~
前書きなど
おわりにかえて
この本を書くにあたり、最愛の伴侶を亡くされた一人の女性に手記をお願いしました。福田理恵さん。伴侶を亡くされた時、彼女は私の大学の学生で偶然にも私は彼女の担任教員をしていました。2010年のある夏の日、生気を失った顔で彼女は私の研究室を訪れ「先生、夫が亡くなったんです」と突然口にしたのでした。この数時間で一気に何キロも痩せたかのように彼女の体全体からエネルギーが抜けているのがわかりました。「亡くなった?」私にはその言葉の意味がにわかには理解できませんでした。「事故で死んじゃったんです…」「死んだ?」
彼女は当時3歳と0歳の2人の息子を抱えた母親でもありました。あの時、2人でどんな会話を交わしたのか私自身も気が動転していて記憶が定かではないのですが、おつれあいはまだ32歳という若さであったことと、お子さんは仙台のご実家がとりあえず面倒を見てくださっているということと、おつれあいのご実家の栃木と仙台とを行き来するためのキャリーバックを彼女が持っていたことだけは記憶にあります。そして「これは何か悪い夢なんじゃないか」と何度も思いました。
当時、私は仙台に遺児たちの心のケアができるそんな場所を作ろうとまさに準備をしていたところでした。「こんな身近にいる人が遺児を抱えることになるなんて」とにわかには信じられませんでした。「それ」は突然にそして誰にでも起こり得る状況として起こるんだということに思い至ったのでした。「遺児に心のケアを提供できる場所をつくることを夢見てきたけれど、それを紹介しなければならない現実はなんて悲しくつらいことなんだろう」と思いました。
この本の共著者であるNPO法人子どもグリーフサポートステーションの代表西田正弘さんは約30年間、遺児の支援に携わってこられました。彼はこの国の中で最も遺児支援経験の長い人物の一人です。アメリカには子どものグリーフサポートの場が500カ所ほどあるそうですが、日本には遺児たちの心のサポートを行う場所は数カ所しかありません。その数カ所のうち、一つは西田さんが関わってきたあしなが育英会のあしながレインボーハウスです。私はせめて全都道府県に子どもたちが自身の喪失体験を語れる場ができたらいいなと思い、西田さんにご指導をいただきながら2010年12月に仙台に子どものグリーフサポートの場をつくったのでした。仙台に、東北の地に子どものグリーフサポートを提供する場が誕生したのはあの悪夢のような大震災が起きるわずか3カ月前のことでした。私たちはそれがまるで定まっていたことのように、多くの震災遺児たちを立ち上がったばかりのプログラムに引き受け、そのグリーフと向き合うことになりました。
仙台青葉学院短期大学の佐藤利憲先生は、ボランティアでグリーフプログラムディレクターを務めてくださいました。仙台グリーフケア研究会の滑川明男代表は保護者のプログラムをディレクションしてくださいました。市民からのおもちゃやぬいぐるみ、文房具などの寄付、それにたくさんの市民ボランティアの協力もいただきました。プログラムに参加して子どもと遊んでくださる方、おやつの準備をしてくださる方、ぬいぐるみをクリーニングしてくださったクリーニング屋の方、保護者の方々の癒しになるような小物をくださった方、また宮城県からはこのプログラムに助成金という形で応援をいただきました。仙台の遺児のプログラムは仙台市民の総力でできたものでした。この本の中でも述べていますように、ひとりの子どもが育つには地域のみんなの力が必要です。その言葉をそのまま具現化したのが仙台のグリーフプログラムでした。
多くのマスコミがこの取り組みを取材してくださいました。記者からは「何年間、遺児のケアが必要だと思われますか?」と尋ねられました。さて、親を亡くした後、何年あるいは何歳になるまでその子のサポートをすればいいのでしょうか。
その質問をされた時に私は共著者である西田さんが語ったことを思い出しました。彼は12歳の時に交通事故で父親を亡くし、大学時代から遺児のケアに力を尽くしてきたそうです。そんな彼に自身のグリーフワークとして迎えなければならないひとつの大きな人生の山がありました。それは数年前のことでした。彼が父親の死んだ年齢と同じ年になる誕生日からそれをひとつ超える誕生日までの1年間。それは彼にとって特別な意味をもっていました。この間、気持ちが不安定になったり、いつもと違う感じに襲われたと言います。誰から見ても彼はわが国における遺児の心のケアの第一人者であり、傍からは自身のグリーフの課題はクリアしているかのように見えたことでしょう。しかし、実際の彼は紛れもなく父親を亡くした12歳の少年であり、そのグリーフと歩んで来た人でした。
人には誰にでも必ず「お父さん」と「お母さん」がいます。私たちはいくつになっても永遠に彼らの「子ども」なのです。どんなに社会的に地位を得ても、どんなに心理学を理解していても、どんな大人の世界で生きていても、誰でもみな永遠の子どもです。いくつになってもお父さんやお母さんに自分のことを褒めて欲しい、認めて欲しいと人は思います。そして幼いころの自分を抱きしめながら人生を歩み、今を生きています。
西田さんの体験を聞いて以降私は、遺児のサポートを何年間やればいいかと問われたら、「その子が亡くなった親の年齢を超えるまで」そう答えるようにしています。先ほど福田さんの息子さんたちがお父さんの年齢を超えるには、20年、30年の歳月を必要とします。彼らの長いグリーフの旅はいろいろな形に姿を変えて続いていくのです。長い月日、彼らのグリーフによりそう、そういう覚悟なしにこのサポートはできません。
また、誰かのグリーフによりそう時に、何よりも一番大事にしたいと私が思っていることは「自分自身のグリーフ」です。私は遺児ではありませんが、私なりの喪失を体験してきました。それは他人から見たらちっぽけな喪失かもしれません。でも、その喪失に確かに幼い頃の私は傷つき、沢山泣いて、沢山寂しい思いをしました。喪失体験をしない人はいません。必ず誰しも何かしらの喪失体験を持ち、そのグリーフと共に生きています。
子どものグリーフサポートの基本的な考えの中に「自分も大事・相手も大事」という言葉があります。私自身、自分の痛みに気付き、寂しい思いをしていた小さい頃の私を抱きしめ愛おしみながら、この活動を続けていきたいと思っています。
たくさんの方の愛によってこの活動は支えられています。この場を借りましてみなさまに心からの感謝を申し上げたいと思います。本当にありがとうございます。これからも、それぞれのグリーフに優しい社会を目指して共に歩いていくことができれば幸いです。