目次
ものがたりの発生 目次
はじめに
Ⅰ 私のめばえ
─ことばが生まれるすじみち3
第1部 私の意志のはじまり
1章 「欲しい」「いや」の身振りとことば
1 自分をとらえる視点
2 「欲しい」「いや」─要求-拒否行動の発達
3 「泣き」の変化
4 「いや」─首振りの身振り
5 「いや」のことば─「ニャイニャイ」
6 私の「つもり」の発生
7 拒否行動と私のつもり
第2部 社会的ネットワークのなかの私
2章 ここの人びとのなかで生まれる私
1 ここの人びとの社会的ネットワーク
2 これはこの人に─誰に伝えるか
3 これはこの人のもの─誰のものか
4 ここの人とよその人─愛着と人見知り
3章 子ども仲間としての私
1 きょうだい関係─しっとの発生
2 私のめばえとことばのはじまり
Ⅱ ものがたりの発生
─ことばが生まれるすじみち4
第3部 経験とことばをむすぶ
4章 見立てとごっこのはじまり
1 ものがたり(ナラティヴ)とは何か
2 見立てと延滞模倣
3 ものがたりの共同生成とごっこ
5章 ことばとことばをむすぶ
1 2つのことばをむすぶ
2 「私」と他者をむすぶ─自称と所有
3 要求と拒否の二語発話─「**イイ」「**ニャイニャイ」
4 ことばによる交渉
5 ことばとことばの併用─バイリンガル
第4部 ことばで経験をつくる
6章 経験を語り、経験を変えるナラティヴ
1 過去のできごとの語り─経験の組織化
2 印象的なできごとのものがたり
7章 ここにない世界をつくる
1 ここにない世界をつくる
2 虚構が現実を変える
おわりに
初出一覧と関連資料
索 引
カバー写真=林 恵子/装幀=虎尾 隆
前書きなど
はじめに(一部)
■ことばが生まれるすじみち
この本は、子どもの0歳から3歳までの日常生活における行動観察をもとに、子どもの心理世界で本質的に何が起こっているのかを探りながら、「ことばが生まれるすじみち」にいくつかの理論的道標をつくることをめざす3巻シリーズの最終巻である。
このシリーズは、母親が日誌に記したひとりの子どもの日常観察をもとに、子どものことばが生まれる生(なま)の現場から、「ことばとは何か」を問いかけるものである。ひとりの子ども「ゆう」のことばが生まれる発生過程を、彼が生活している文脈(コンテクスト)を大切にして詳細に追いかけながら、「ことばとは何か」を根源的に思索し、新たな人間観を照射してみたいと考えている。
「ことばが生まれるすじみち」3巻シリーズは、世界がことばや記号によって意味化されるとはどういうことなのかという問いを発生的に追求する「発生的記号論」の試みである。それは、人と人が文脈のなかでどのようにコミュニケーションし、どのように語るようになるのかと問う「発生的ものがたり論」の試みでもある。ことばとは何かという問いは、自己が社会的ネットワークのなかで、どのように他者とかかわっているかという関係論とむすびつけられる。この本は社会的ネットワークの関係性のなかから生まれる「発生的自己論」の試みといってもよいだろう。
第1巻『ことばの前のことば─うたうコミュニケーション』では0歳代の発達について、第2巻では、1歳前半の『ことばのはじまり─意味と表象』について考えてきた。この第3巻では、1歳代から2歳前半に焦点をあてて『ものがたりの発生─私のめばえ』について考えてみたい。
■私のめばえ
「私」とは何だろうか。誰にとっても私というものがある。私とほかの人たちは身体の境界で区切られるのだろうか。身体をもつものは、ミミズでもネズミでも、みな私というものをもっているのだろうか。そうともいえないだろう。
「私」は、何か行動するときの動作主であり、行為の主体であり、意志をもっている。でも、私がやりたいことが何なのか、自分でよくわからずに行動することも多い。なりゆきまかせに動いて、後で冷や汗をかくこともある。私は、本当に「意志」と「目的」をもって、それに向かって行動しているのだろうか。
私は自分で「これが私」と鏡で見るように認識できる。「私(自我)」は認識の主体であり、鏡に映った自分は客体としての「私(自己)」である。しかし、私にはすべてが見えるわけでもないし、鏡がなくても、私は私と感じる。
「私」は、感情の基盤でもある。私が感じる喜びも痛みも、特別である。自分の顔にできたものは小さなニキビでも、気にかかる。私にとって、私は何よりも気にかかる大きな関心事であり、無視されるとたまらなく悲しくなる。
「私」とは何だろうか。本当に不思議である。私というものは、いつから出現するのか、という問いは簡単に答えられない。「私とは何か」という定義と切り離すことができないからである。今まで述べてきたように単純に考えただけでも、「私のめばえ」を探究することの難しさがわかる。まして、「自己とは何か」という問いは、古今東西の哲学者が頭をしぼって考えてきた大問題である。とても太刀打ちなどできない。ささやかな私の書棚でさえ、関連書は山をなして積み重なっている。それらを横目でちらりと眺めただけで、すぐに挫折してしまう。
そんなふうにして、30年のあいだ挫折を重ねて、この書物は書きすすめることができなかった。しかし、自分の人生の先が見えてきた今になって、恥をかなぐり捨てて、子どもの観察データだけでも生かせないかと思うようになったのである。
「ことば」と「私」の発生は、子どもの発達において切り離すことができず、両者は両行して発達するように思われる。どちらも問題が大きすぎる。無謀にもヒマラヤに挑もうとする小さなアリからは山々の全体を俯瞰することはできない。地道に地を這うアリから見える世界も、たとえ偏っていても価値があるのではないかと信じて、いくつかのすじみちをスケッチしてみたいと思う。
■「欲しい」と「いや」─要求-拒否行動と、「私のつもり」
乳児は0歳の初めでも違う味のミルクが口に入ると舌で押し出す。生後9か月にもなれば、子ども自身の「欲しい」「いや」「好き」「嫌い」が明確になる。たとえば、乳児は興味をもって手を出して取ろうとしていたおもちゃがなくなっても、すぐに気がまぎれ、別のものを代わりに出せばよかったが、そうではなくなる。それを手に入れるまで捜そうとするし、いやなものは手で振り払って拒否する。
また、乳児はいつもなじんでいる好きな人には愛着を示して、にっこり抱かれに行くのに、そうでない人が抱こうとすると人見知りして激しく泣いて拒否する。
このように0歳の後半には、乳児の「意図」が明確になり、意思表示がはっきりしてくる。「欲しい」という欲求が満たされないと、乳児は拒否したり抗議したりする。それがただ望んだ結果が得られなかったから欲求不満で不快になったというだけならば、特に「私」というものを仮定しなくても説明できる。
だが、欲求が満たされなかったから不愉快になったのではなく、結果はどうであれ、自分の気持ちが無視されたことに腹が立った、自分の意図が理解されなかったことが悔しかったなどという場合はどうだろうか。もし、子どもの内に、自分の気持ちが傷つけられたという感じが生まれているならば、そこにはかけがえのない「私」というものがあるだろう。
ゆうが1歳3か月のとき、キャラメルコーンの袋をつかんだので、母がとりあげて袋から1つ取って渡すと、「ニャイニャイ(イヤ、イヤ)」と言って泣き、玄関へ行って、全部捨ててしまったことがあった。結局、食べられなくなったので、要求実現という意味では損をしたのだが、「袋ごと」という自分の「つもり」が無視されたことに怒ったのである。
このように、子どもの「つもり」は、単に「**が欲しい」という要求実現行動とは違って、メンツをとるか実利をとるかというように両者が矛盾する場合には、明確になる。現実の利益を捨ててまで守らなければならない大切なもの、どうしてもゆずれないもの、それが無視されるとたまらなく不快なもの、それこそ自分というものである。
■共同世界からの出発─「私のつもり」をわかってくれない他者
「私のつもり」とは、第一に自分の内に設定した内的目標である。だから外的目標だけではなく、自分の基準に達したかどうかで評価が分かれる。さらにその評価には他者の存在がかかわっていると考えられる。
ゆうの場合、自分の「つもり」がはずれたとき、たとえば想ったとおりにブロックがはめられないとか、積み木が積めないというときにも泣くことがあった。しかし、激しいかんしゃくや拒否は、母や姉がからんでいるときに圧倒的に多く現われた。「自分がこうしたい」というだけではなく、「あの人はこうしてくれる」「あの人はこうするはずだ」というつもりがはずれると怒りをぶつけたのである。自分でものを取ろうとして転んでもそれほど泣かないのに、姉がちょっとでも関与すると、ひどく泣くのである。
子どもは大人の助けがなくては生きていくことはできない。子どもから見れば、他者が自分の要求実現やコミュニケーションを共同でやってくれるのはあたりまえかもしれない。ゆうは自分ができない玉入れゲームを母にやらせて、自分がイメージしたとおりのやり方で母がやらないで途中を省いたりすると、「ナイナイ」と言って拒否した。また、母が「ダンダ(風呂)入ろうね」と言った後で、他の用事をしていてなかなか風呂場に行かなかったときなど、ひどく怒った。
子どもは、欲しいものが手に入らなかったという現実の欲求実現の結果に対して怒るよりも、子どもが思い描いた「つもり」と母の行動とのささいなくい違いに「ちがう!」と抗議するようになったのである。本人の「つもり」は、内面的なものであるから・・・