紹介
1972年のイングランド。平凡で、少し疎外され、退屈していた12歳の少年サイモンは、母とともに、「スターマン/エイリアン」デビット・ボウイと衝撃的な出会いを果たします。そこから40年余、事故による記憶の損傷体験を経、母そしてボウイの相次ぐ死を迎えるまで、サイモンの傍らには、ボウイの音楽があり続けました――それは特別な「アート」であり、人生をサヴァイヴするために不可欠な「思想」であり、厳しく、優しく、そして親密な何か、でした。本書は、国際的な哲学者となった著者=サイモンが、ボウイの表現世界の核心にあったメッセージのすべてを改めて呼びおこしていきます。その死から2年、名訳を得て、ファン待望の、唯一無二の存在への深い愛(=あこがれ)に満ちた鎮魂の書です。著者による日本語版へのメッセージと105曲のサウンドトラックリスト(Spotify)付。
目次
ボウイ 目次
●もくじ
わたしの初体験/エピソード的点滅/アートのみだらな(フィルシー)レッスン/ワンダフル/ハイデガー流の退屈論で退屈にさせるわたし/ユートピア的な何か/見者(シーア)は虚言者(ライア)である/無を堅持すること〔=何ものにもすがらぬこと〕 /宇宙空間のハムレット/ディストピアーここで手に入るもの(ゲット・イット・ヒア、シング)/編み物をする女たち(レ・トリコトゥーズ)/不条理なものの威厳/幻は幻に/ディシプリン/消失/あこがれ/あなたはわたしから去ってゆくと言う(ユー・セイ・ユール・リーヴ・ミー)/リアリティに見切りをつける/神の墓のうえで遊ぶ/恐れなしに〔=恐るべき無〕 /太陽、雨、火、わたし、あなた/ノーと言いながらイエスを意味する/月曜(マンデイ)はいったいどこに行った?/ラザルス、ニュートン、グラフス/シーラ、お辞儀をして(テイク・ア・ボウ)
感謝の言葉/日本語版へのメッセージ
訳者あとがき
歌詞ほか引用作品(作者)一覧
前書きなど
ボウイ 訳者あとがき(一部抜粋)
「ボウイのアルバムのような書物を書きたい」と、ひそかに思い続けてきた。
著者クリッチリー氏はこの本で、わたしのそんなあこがれを達成している――しかも、デヴィッド・ボウイそのひとを論じることによって。ひとつひとつの章は短く、それこそボウイの歌一曲を聴くうちに読み進められそうだけれど、そんなほんのちょっとしたあいだに、ボウイの音楽をめぐる自分の記憶や感情を揺さぶられる閃光のような瞬間が幾度もあった。これは国際的に知られた哲学者によるボウイ論であり、高度に知的で刺激的な分析を繰り広げながら、音楽のビートのように肉体でじかに感じ取られるスリリングな緊張を孕んでいる。この翻訳が本書のそうした魅力を伝えるものであることを願う。
誤解のないようにまず述べておけば、これはボウイの評伝ではない。本書のもとになった『ボウイ』初版をめぐるインタヴューで、執筆の動機を尋ねられた著者は、聞き手である友人の哲学者キース・アンセル=ピアソンに対し、次のように答えている――
「『ボウイ』におけるわたしの目的はとてもシンプルだ。音楽ジャーナリズムでも、通俗心理学でも、伝記や安っぽい社会史でもない仕方で、ボウイのアートを正当に論じられる概念を見つけることだ。ポップ・カルチャーの巨大な重要性を正当に認め、それを正しく叙述し尊ぶ言語を、わたしたちはまだもっていないのだと思う。わたしにとって、そして、ほかの数百万の人びとにとって、世界はまずポップ・ミュージックを通し、とくにボウイの音楽を通して、さまざまな可能性の束となって現われた。ボウイは過去六十年間における唯一無二の最重要なアーティストであって、誰かがまさにそのことを表明し、彼の歌がこの主張をどのように正当化するかを説明しなければならない。それこそ、わたしがこの本で試みていることだ。」( “BOWIE: Everything and Nothing”. In:David Bowie Wonderworld. 11 Sept. 2014. Web.)
ここで述べられているような概念――本書によれば、たとえば「無(ナシング)」を見出し――それによってボウイのアートをその重要性にふさわしい仕方で論じるという仕事に、著者は哲学者として取り組んだ。しかし本書は、客観的であろうとするあまりに無味乾燥だったり、先行研究を事細かに参照するがゆえにまだるっこしかったりする学術論文ではない。著者はボウイを聴き続けてきたみずからの経験からこそ語るのだし、才気あふれるその文体は問題の核心に向けてはるかに迅速なのである。ボウイ体験が著者にとって決定的なものであったがゆえに、本書は著者の人生の記録ともなっている。パーソナルな事柄に関する記述も多い。だがそのことはこの書物を私的な次元にとどめてしまうのではなく、むしろ逆に、ボウイの音楽それ自体に通じる普遍性を本書に与えている。
そしてそれは、ボウイのおかげで著者がいわば血肉化した、人間の生と死をめぐる哲学でもあるだろう。哲学者としての著者を知る読者ならば、ハイデガーやデリダを論じた彼の思想との共通点を随所に見出すはずである。著者がこれまでに書いてきた書物のテーマ、とくに死、自殺、ハムレットの人物像、ウォレス・スティーヴンズの詩などとの関連も深い。キケロが述べたように「哲学をすることは死ぬことを学ぶことである」とすれば、ボウイの死をめぐる本書末尾の数章は、邦訳もある著書『死せる哲学者たちの書』に付け加えられるべき哲学的考察にほかなるまい。ことほど左様に、本書には著者の哲学のエッセンスが凝縮されている。