紹介
◆東京オリンピックを前にぜひ読んで欲しい本!
東京オリンピックを三年後に控えて、日本のアスリート界も盛り上がりつつあるようですが、それを脅かすのがドーピング問題。ソ連陸上界の国家ぐるみの疑惑は記憶に新しいところです。本書は、ドーピングの根拠とされる「健康に害がある」「不公平性(スポーツ精神にもとる)」のいい加減さ・根拠のなさから始めて、パフォーマンス向上を目指す近代スポーツにはドーピングは必然的と喝破し、その本質的関係を明らかにします。たとえばヴィクトリア時代の英国では、トレーニングは「ずる(不公平)」として禁止されていました。まさにトレーニングはドーピングだったのです。現代の過剰トレーニングによる不健康化にも多くの示唆を与えます。その他多くの「不祥事」「メダル剥奪事件」などを例に、まるで選手を犯罪者扱いするドーピング撲滅運動の非人間性を暴き、スポーツと人間のありうべき姿からの「対処法」を提案します。
目次
ドーピングの哲学 目次
序 ドミニク・ルクール
序章 クロード・オリヴィエ・ドロン
Ⅰ章 エーロ・マンティランタ、(自然によって)遺伝子的に組み換えられたチャンピオン
パスカル・ヌーヴェル
Ⅱ章 ドーピング、向上医学、スポーツの未来 ジャン=ノエル・ミサ
Ⅲ章 明日のチャンピオン―生まれつきの素質の最適化か、構造的な向上の
プログラムか? ジェラール・ディヌ
Ⅳ章 反ドーピング政策―倫理的ジレンマ ベンクト・カイザー
Ⅴ章 ドーピングと(は)スポーツ精神(である?) アレクサンドル・モロン
Ⅵ章 医療倫理とスポーツ的規範の押し付け(一九八五―二〇〇九)
クリストフ・ブリソノー
Ⅶ章 ドーピングおよび諸々のドーピング的振舞いの防止―シシュポスの岩
パトリック・ロール
Ⅷ章 医学的パフォーマンス、あるいはドーピングする医師 ジャン=ポール・トマ
Ⅸ章 スポーツ選手の身体の「自然」と「超自然」 イザベル・クヴァル
Ⅹ章 ハイレベルのスポーツ選手の活動の理解における「司令」と「自律」―ドーピング倫理
にとって必要な知とは? ドゥニ・アウ
註
訳者解説
事項索引
人名索引
装幀―難波園子
前書きなど
ドーピングの哲学 序章
クロード・オリヴィエ・ドロン
いつまでも変わらずに今日的であるという、不思議な特徴を持ったテーマが存在する。メディアは自分たちの時事性をたやすく更新してくれるようなものに敏感であるので、そのようなテーマがお気に入りである。スポーツにおけるドーピングがそうしたテーマであることは間違いない。ジャン=ノエル・ミサとパスカル・ヌーヴェルの発案により、カンギレム・センターは、ドーピングをテーマにしたシンポジウムを、二〇一〇年五月に開催した。招待されたさまざまな研究者や実務家(哲学者、スポーツ医、社会学者ら)が、この問題について議論を交わしている間にも、現実あるいは推測の「事件」が、メディアの見出しを賑わせていた。イタリアのフランコ・ペッリツォッティは「生体パスポートの異常値のために」ツール・ド・フランスへの出場を禁じられたところであり、ポーランドの女子クロスカントリー・スキー選手コーネリア・マレクはエリスロポエチンの陽性反応のために出場停止処分を受け、主要な大会を離れたところでも、トム・ボーネンとリシャール・ガスケが、コカイン検査で陽性の反応を出していた……。ボーネンは「常習犯」だった。ガスケは無実を主張したが、ほとんど相手にされなかった。フロイド・ランディスは自分がドーピングをしたことをようやく認めて、ツール・ド・フランスで六勝を誇る、このフランス一周レースの英雄ランス・アームストロングも、同じことをしていたと告発した……。数カ月後には、二〇一〇年のツール・ド・フランスの新たな勝者アルベルト・コンタドールが、メディアと司法の騒乱に巻き込まれていた。微量のクレンブテロールの陽性反応が出たのである。スペイン自転車競技連盟の反応や、スペイン政府の介入は、とりわけフランスのような高度の「清潔さ」と徹底した「厳密さ」を求める国において、非常に強い抗議の波を巻き起こすものだった。フランスの選手たちの敗北も、スペインの選手たちのあらゆる競技での「いかがわしい」勝利も、ある種の「ドーピングのダンピング」、つまり国際ルールを守らないスペインの不当競争が原因なのではないか? サッカーのワールドカップにおけるスペイン・チームの勝利にしても、ドーピングのおかげだったのではないか?
構造的な現象としての、ドーピングとパフォーマンスの向上
このようにドーピング問題が常に今日的であるということについては、真面目に考えてみる必要がある。それが何の症候であるのかを、問うてみる必要があるのだ。このような問いに対して答えをもたらしてくれるのが、ここに集められたさまざまな論文である。論文全体が強調しているのは、何よりもまず、この問題の今日性が、次の単純にして否定しがたい事実の症候であるという点である。すなわち、ドーピングが、諸々のスポーツ実践や競技スポーツの全般的な発展のなかに、構造的かつ論理的に組み込まれているという事実だ。言い換えれば、ドーピングとは、最近のトップレベルのスポーツの発展の、内在的にして正常な部分なのだ。二〇一〇年五月のシンポジウム当日と同じように、厳密な意味での「ドーピング」から、パフォーマンスの向上のための諸実践へと、視野を広げてみれば、理解はいっそう容易なものとなる。トップレベルのスポーツには、さまざまな種類のパフォーマンス向上の実践(トレーニング、筋肉量の向上や肺活量の向上、生理学や遺伝学的な介入、選手の装備の改善)が導入されており、ドーピングとの区別はしばしば困難なのだ。他方で、パトリック・ロールの概念を借りて、「ドーピング的振舞い」全体を考慮に入れてみれば、それは社会全体に広まっている。試験に合格するためにアンフェタミンなどの興奮剤を服用する。アナボリックステロイドを服用する、等々。要するに、一方には非道徳的で恥ずべきドーピング、他方には許容されたり評価されたりする諸実践という、少しばかり便利でイデオロギー的な区別を拒絶してみてはどうかということだ。本書の著者たちがそろって示しているのは、こうした区別が曖昧で一時的かつ根拠の脆弱な境界の上に成り立っているということである。