目次
◆目次
序章 文化と実践を問う 石黒広昭・亀田達也
1 心の本質的社会性
2 本書成立の背景
◇北大COEプログラム
◇心の生物学的基盤
◇心の文化的基盤
3 本書の構成
4 文化をめぐる「現実的問題」にむけて
第Ⅰ部 文化と実践 三つのアプローチ
第1章 文化への制度アプローチ 山岸俊男
はじめに
1 心と文化の相互構成
2 信念と規範
3 ペン選択実験
4 すき焼きの最後の一切れの肉としてのペン選択
5 デフォルト戦略
6 ペン選択シナリオ実験
◇三つのシナリオ
◇自分は個人的には同調を望ましいとは思わないが、他人は望ましいと思っていると思う
◇状況のデフォルト性をなくすと、ペン選択の日米差は消え去った
◇実際のペン選択も他人の目により変化する
7 自己高揚と自己卑下の文化差
◇自分の能力を正確に判断できたら報酬を差し上げます
◇デフォルト戦略の使用を抑制すると
8 行動が重要
9 行動が生み出す均衡としての制度
10 誘因(インセンティブ)の社会的定義
11 誘因の自己維持システム
12 集団主義的制度
13 自己維持的共有信念システムとしての制度
14 「教室のピグマリオン」と黒人差別
15 マグリブとジェノア
16 制度としての集団主義と個人主義
17 結 論
第2章 文化と認知 文化心理学的アプローチ 石井敬子
はじめに
1 文化の定義
2 文化と心性の関係性
3 文化心理学的アプローチ
4 文化的自己観
5 コミュニケーションの慣習と思考様式
6 言語と思考
7 実証研究の選択的レビュー
◇注意配分
◇推論
◇カテゴリー化
◇発話の情報処理
8 文化心理学的アプローチおよびそれに批判的なアプローチにおける問題点
◇社会・文化環境に関する前提 「経済的」か「心理的」か
◇文化内の分散
9 今後の展望
第3章 実践としての文化 文化に対する社会歴史的アプローチ 石黒広昭
1 文化とは何か
◇「文化的」エピソード
◇文化の定義
2 媒介された協働過程
◇媒介された行為
◇社会システムとしての協働空間
◇文化の学習過程
3 文化的学習空間の局地性
4 思考の文化差
◇ディスコース
◇リテラシーと思考
◇認知過程の社会歴史的制約
5 媒介する一式の道具
◇所有メタファー
◇異種混淆性
◇授業の中の複数の声
6 文化はどこにあるのか
◇変数としての文化
◇文化概念の脆弱性
7 文化の創造
◇持続可能な実践
◇文化の交差と創造
8 文化と実践をめぐる語り
第Ⅱ部 三論文へのコメント
第4章 「適応」か、「相互構成」か、「参加」か 佐伯 胖
はじめに
1 三論文へのコメント
◇各論文のキーワード
◇山岸論文へのコメント
◇石井論文へのコメント
◇石黒論文へのコメント
2 文化と実践 佐伯の文化的実践論
◇文化的実践とは何か
◇「理解」は「作品」なり
◇「よさ」の鑑賞
◇LPPとの関係
第5章 社会歴史的アプローチ、実践の共同体、および“ヒト―人”問題をめぐって
石黒論文を中心とするコメント 亀田達也
はじめに
1 社会歴史的アプローチの特質
◇コメント1 “文化”は主に人間の領域に属するのか、ヒトの領域にも属するのか?
◇コメント2 “文化”を持続させるエンジンは何か? 変化の契機を生むものは何か?
2 結 論
第6章 社会・行動科学のフロンティア 新たな開拓史にむけて 北山 忍
はじめに
1 スクリプト化された行動パターン 三論文に共通する鍵概念
◇制度・意味・実践
◇山岸の制度 結局は対人期待のこと
◇石井の意味 行動パターンとしてのスキーマ概念
◇石黒の実践 行動パターンとしての実践
2 文化的慣習と心理プロセスの相互構成過程
◇文化課題理論
◇社会的に分散された暗黙の心理傾向
◇三論文の相関関係 なぜすべての観点が必要なのか
◇暗黙の心理傾向と明示的な価値観 特に日本に注目して
3 いくつかの理論的・実証的問題
◇暗黙の心理傾向 石黒と山岸は、なぜ否定しようとするのか
◇文化慣習の起源 ゲーム論的文化論の可能性
◇北海道の特異性
◇巨視的文化比較の重要性 念のために…
4 結 論
あとがき
引用文献(7)
事項索引(4)
人名索引(1)
前書きなど
◆序章より一部抜粋
石黒広昭・亀田達也
序章 文化と実践を問う
1 心の本質的社会性
本書で我々は心の本質的社会性を主張する。心は社会的に構成されている。そして、その心がまた社会を創造する。心と社会は人々の実践活動を通して繋がれる。本書では、心の本質的社会性を主張する代表的な理論的立場を議論の俎上にあげることにより、心と社会の相互依存関係を解き明かし、心に対する新しい見方を世に問う。
心はどこにどのような形であるのか。心理学はその存在基盤において常に「危機」の中にある。現代心理学の祖といわれるヴントは直接経験を内省によって実験的に研究する「生理心理学」と文化的所産を研究する民族心理学という二つの心理学を提唱した(Cole, 1996)。彼にとって、その二つは一方を他方に還元することのできない、異なる「心」を扱うものであった。ヴントにとって、生理心理学は個人によって文字通り「経験される」ところの、素朴で基礎的な精神機能としての心を研究するものであるのに対し、民族心理学は共同体によって作り出される随意的記憶、推論、言語などといった高次精神機能を含む文化的所産としての心を研究するものであった。近代心理学の誕生から既に始まるこの二つの心理学への分裂は、「心」を取り扱うことの困難を如実に表している。
二つの心理学を統合しようとする試みは、主として第一の心理学の立場からなされてきたといえよう。時々刻々と変化する生の環境と直接接触することがない理想化された個人の心を捉えようとしてきた実験心理学は、文化を取り扱う第二の心理学を心の研究から切り離し、他の分野に譲り渡そうとしてきた。それによって、心理学独自の領域を社会と切り離された心に限定しようとするのである。社会や制度、歴史を越えた普遍的な心を捉えようとする試みである。実践から切り離された普遍的な心を心の本性と考え、それを捉えようとする願望を今も多くの心理学者が持っているようだ。
社会や実践から切り離された心は、やがて生理的な物理現象へと還元されていくであろう。折しも現在は脳科学ブームである。そこではすべての精神現象が脳の活動に還元され、心は脳の付帯現象でしかないかのようである。だが、脳は社会なしには今の我々の心を生み出し得なかったはずだ。「心」は人々が実践することによって生まれ、伝承され、変形されてきたはずだ。我々は「心」を環境と出会うことのない個人の生理現象や内的経験へと還元する立場に強く異議を唱える。心理学の細分化により、現在ではほとんど正面から問われることのなくなってしまった「心」を巡る議論が今こそ必要である。心の本質的社会性を主張することで、21世紀の人文・社会科学における心理学の存在基盤を改めて問いたい。