目次
序文
第一章 (国内)旧被災地における惨事の記憶[三木英]
1.濃尾地震(一八九一)被災地
1-1.地震とその後
1-2.旧被災地の現在
2.北丹後地震(一九二七)被災地
2-1.地震とその後
2-2.旧被災地の現在
3.鳥取地震(一九四三)被災地
3-1.地震とその後
3-2.旧被災地の現在
4.三河地震(一九四五)被災地
4-1.地震とその後
4-2.旧被災地の現在
5.福井地震(一九四八)被災地
5-1.地震とその後
5-2.旧被災地の現在
6.中越地震(二〇〇四)被災地
6-1.地震とその後
6-2.旧被災地の現在
7.伊勢湾台風(一九五九)被災地と信楽高原鐡道列車事故(一九九一)現場
7-1.台風とその後
7-2.台風被災地の現在
7-3.列車事故とその後
7-4.列車事故現場の現在
8.中間考察
第二章 (国外)旧被災地における惨事の記憶[三木英]
1.インド洋大津波(二〇〇四)被災地――インドネシアとタイ
1-1.バンダ・アチェ(インドネシア)における津波とその後
1-2.バンダ・アチェの現在
1-3.プーケット及びカオラック(タイ)における津波とその後
1-4.プーケット及びカオラックの現在
2.ニュージーランド・カンタベリー地震(二〇一一)被災地
2-1.地震とその後
2-2.旧被災地の現在3.暫定的結論
第三章 惨事の記憶継承における宗教の役割[三木英]
1.記憶の四タイプ
2.集団的記憶と宗教
3.宗教による集団の安定化
第四章 現代中国における宗教の震災救援活動と記憶の継承[川田進]
1.映画「唐山大地震」が投げかけたもの
2.四川大地震における救援活動
2-1.難航する救援活動と日本の支援
2-2.早期復興モデル地区・水磨
2-3.漩口中学地震遺跡
2-4.四川大地震記念館
2-5.犠牲者墓地
2-6.地震予知と「抗震救災」精神
2-7.政府発行震災資料と現代中国の宗教
2-8.宗教界の震災救援活動
2-9.愛国宗教組織および香港・台湾の支援活動
2-10.四川省内カトリック教会の事例
3.青海大地震に見る民族問題と記憶の継承
3-1.青海大地震とチベット族
3-2.倒壊したジェグ寺ホテル
3-3.陣頭指揮を執る政府要人
3-4.震災関連資料と宗教
3-5.チベット仏教徒の映像記録
3-6.火葬か、鳥葬か
3-7.震災前後の玉樹
3-8.仏教寺院の再建
3-9.モスクの再建
3-10.地震遺跡と「抗震救災記念館」
3-11.タンカ寺の再建と記憶の継承
4.政府の震災救援活動と宗教界の役割
第五章 アートにおける追悼の営みと記憶の継承――東日本大震災被災地にみる拡散宗教性[渡邉太]
1.東日本大震災とアート
2.追悼するアートプロジェクト
2-1.女川町「迎え火」
2-2.南三陸町「きりこプロジェクト」
3.震災遺構と被災物の展示
3-1.震災遺構
3-2.ミュージアム
4.宗教とアートが交わるところ
第六章 スリランカ仏教による国際的な被災者支援と支援された記憶の想起[岡尾将英]
1.はじめに
2.上座仏教の被災者支援とグローバル化による変容
3.在日スリランカ人の上座仏教による被災者支援
4.在日スリランカ人の僧侶によって主導される日本人による被災者支援
5.在日スリランカ人による被災者支援への日本のNPOによる協力
6.国際的な相互支援と記憶の想起
前書きなど
序文
本書が編まれているのは、東日本大震災から八年を経過した二〇一九年である。阪神・淡路大震災の発生年を起点にすれば、二四年の歳月が流れている。
この二つの大震災が日本社会に及ぼしたインパクトの甚大であることは、論を俟たない。八年を経ても、二四年が経過していようと、経済的、身体的、そして精神的なダメージに苦悶する人々は絶えていない。ひとたび大地震が発生すれば人と社会は傷つく。時を経て傷は傷跡と化しても、それは長きに亘って消えず疼き続ける。人と社会の苦悩が止まない限り、震災に終わりはないのかもしれない。
では疼かなくなり、苦悩が止んだなら、大震災は終わったと認識してよいだろうか。そして大震災という出来事を、忘れてよいだろうか。
忘れてよいとの声は、果たして何処かから聞こえてくるだろうか。震災の記憶を風化させてはならないとの声ばかりが、聞こえてくるのではないか。
ではいつまで、私たちは震災を記憶し、語り続けてゆけばよいのだろう。人々に苦難を強いた二つの大震災は、過去に発生した出来事である。いつまでも過去に縛られることがあってよいのか。
ここで、考えるべき問題が現れてくる。震災の記憶はそもそも、受け継いでゆくべきものなのだろうか。受け継がれてゆくべきものならば、それは何のために、なのだろう。また、いつまで受け継いでゆくべきなのだろう。永遠の継承は、果たして可能なことなのだろうか。人の心の移ろいやすさを思えば、それが簡単なことでないことは自明である。どうすれば永続的継承は可能となるのか。
本書作成を構想したのは、主として、右記問題を考えるためであった。考えるため、執筆者たちは国内・国外のかつての被災地を訪ね、震災記憶がどう伝えられているかを調査したのである。
(…中略…)
ここで本書の構成について、記しておこう。第一章は日本の旧被災地をフィールドとした調査の報告である。一八九一年の濃尾地震から二〇〇四年の中越地震まで、六つのケースが取り上げられている。また地震以外の天災(台風)被災地と人災(列車衝突事故)の現場も取り上げられるが、それは地震のケースとの比較を行うためである。第二章では海外の事例に目を向ける。いうまでもなく日本のそれとの比較のためで、(上座)仏教・イスラーム・キリスト教を文化的背景とする国々の、地震・津波被災地での調査の成果である。そして第一章・第二章で得られた知見を補強する役割を、第三章が受け持つ。記憶継承において、それに関わる集団の重要性を指摘するもので、ここまでを三木が担う。
続く第四章のフィールドは中華人民共和国である。この国でも大地震の多発していることはよく知られるところであるが、そこでの被災地・被災者の実情については、知られるところが少ない。共産党が指導する国家の一側面をそこに見出すことができるが、その側面は記憶継承にも反映されている。川田による第四章は、日本の事例だけに親しんできた者にとり、多くを考えさせてくれる貴重なモノグラフになっている。
第五番目には、記憶継承に取り組むアート(展示)に着眼した章を設けた。渡邊によるこの章では、東日本大震災被災地で展開されるアーティストの活動に垣間見られる宗教的モティーフ(慰霊)と、記憶保存の努力との交差が論じられている。宗教研究者だからこその着目であり、これまでの被災地研究にはなかった視点からのものであろう。
いま国内の被災地でボランティア活動に従う有志のなかに、参加動機として「恩返し」を挙げる者は多い。支えられた記憶は現在の支える活動につながっている。そして新たに生成される記憶は未来の活動にもつながっていくだろう。岡尾による最終の第六章は、記憶がどう継承されているかという問題より、受け継がれていくことで展開される支援について、インド洋大津波(二〇〇四年)の被災地スリランカに照準を合わせ、詳細に検討している。記憶をつないでいくことの意義を、この章は教えてくれるはずである。
執筆者一同は、本書が﹁震災記憶の継承﹂に学問的関心を寄せる学生・研究者の目に留まることを望む。そして惨事の記憶が風化することに抗すべく奮闘する皆様にも、手に取っていただきたいと思う。それによって記憶の継承についての議論が前進していくなら、執筆者一同にとっての喜びである。
(…後略…)