目次
はじめに──日本の読者のために
凡例
1.予見された出会い
・耽羅星主、モンゴルのカーンと出会う
・済州、高麗の都の候補地に
・三別抄の抗戦
2.三別抄と済州、そしてモンゴル
・三別抄、済州を掌握する
・最後の反モンゴル勢力倒れる
・済州説話に見る三別抄の話
◆関連遺跡めぐり
・環海長城
・東済院と松淡川
・「済州缸波頭里抗蒙遺跡址」
・缸波頭城の周辺遺跡
肘壺/瓦窯跡/チャントル/甕城泉/槽泉/将帥泉/極楽峰と「矢受け石」/陣軍岳/アノルム見張り台/マンイリ丘/パグムジ岳/赤岳/軍港浦/朝貢浦/涯月浦/飛揚島と明月浦/咸徳浦/サンセミ岳/クムス池
・流水岩里サンセミ岳方墓
・三別抄と縁の深い高内本郷堂
3.モンゴルとの一〇〇年、済州の変化
・モンゴルの直接支配の始まり
・牧場の歴史の始まり
・山村の形成
・三倍近くに膨らんだ人
・済州の行政単位の母胎となる
・法華寺、国際的寺刹として再建に
◆関連遺跡めぐり
・済州馬放牧地
・済州牧場発祥の地、水山坪
・烈女鄭氏之碑
・法華寺
・元堂寺址五層石塔
4.モンゴル支配一〇〇年に終止符、崔瑩将軍の牧胡討伐
・モンゴルの衰亡
・明の登場
・済州牧胡勢力の最期
◆関連遺跡めぐり
・戦跡地経路
明月浦と明月村/今勿岳/暁星岳
・虎島の戦い古戦場
・崔瑩将軍祀堂
5.モンゴルとの一〇〇年が遺したもの
・再び高麗に帰属するも明に馬を捧げる
・済州、朝鮮建国の決定的な契機に
・未だ残るモンゴルの痕跡
・「生活の中の言語」に残っているモンゴルの痕跡
◆関連遺跡めぐり
・巨老陵丘方墓
・衣貴里金万鎰墓域
・チャッソン/ジャッソン
あとがき
索引
前書きなど
はじめに――日本の読者のために(金日宇:済州歴史文化ナヌム研究所所長・理事長、博士)
済州は朝鮮半島と中国大陸や日本列島などをつなぐ中間的地点であり、遠く東南アジアにも開かれている海上に位置している。つまり、済州は好むと好まざるとにかかわらず、周辺地域との交流が盛んになってしまう地政学的位置にあると言える。歴史的にも、済州は周辺地域と多くの交流を持ち、それらの地域をつなぐ海路の要衝と目されてきた一方で、このために国際情勢が揺れ動く時には激しい変化を経験することもあった。また、済州文化も多様な経路の外来文化を包容し、土着化の過程を経て成立したものと言える。これらの中で最も具体的な例の一つが一三世紀後半から一〇〇年あまりの間、交流が続いた済州・モンゴル文化のケースである。この時は、モンゴルが世界征服事業を展開していた時だったので、済州には侵略者として入ってきたのであり、その後一〇〇余年間、済州経営を行っていた時期だった。これにより済州社会には大きな変化が生じ、今日の済州社会の母体を形成する土台になり、その痕跡は現在も済州社会に見いだすことが出来るのである。
本書『韓国・済州島と遊牧騎馬文化──モンゴルを抱く済州』も、七〇〇年あまり前の済州とモンゴルの最初の出会いと交流が醸し出した歴史像を、歴史学の研究方法論で追跡する一方で、その内容を一般の読者にもわかりやすく、興味を持って読めるように叙述したものである。本書は、二〇一〇年に済州で韓国語で刊行された『제주、몽골을 만나다』の内容を修訂・補強した原稿を日本語に翻訳し、日本の読者の理解を助けるための「あとがき」を末尾に附したものである。
そもそも、『제주、몽골을 만나다』は、筆者が財団法人済州文化芸術財団に在職中に責任研究員として企画した「済州・モンゴルの出会い文化紀行」という編纂事業の一環として構成作家文素然氏と共同で著作、刊行したものである。本の内容と観点は、韓国史を専攻する筆者が二〇年あまり済州史を研究して積み重ねてきた一〇数編の著書・研究論文に基づいている。文体は一般の読者が、一三世紀後半以降、済州とモンゴルの出会いに始まった歴史の痕跡とその意味を探る上で役立つような形を取った。これは、この刊行物が持つ最大の特色であり、長所でもある。また韓国では新たな試みだったのかかなりの注目を集めた。そのため、『제주、몽골을 만나다』の内容は、「제주의 소리」というインターネットサイトを通じて一八回、六カ月(二〇一一年一月二六日~七月二八日)にわたって掲載されたところである。
本書の刊行もこのインターネット上での情報発信が注目されたことがきっかけとなった。この文章に関心を持たれた島根県立大学の副学長飯田泰三先生、同大学北東アジア地域研究センターのセンター長井上治先生、同センター研究員の石田徹先生が、二〇一三年に済州を訪れて筆者と会い、済州・モンゴルの交流史について直接話し合った。そして、その当時、島根県立大学で開催準備中だった「島根国際学術シンポジウム二〇一三:北東アジアの地域交流──古代から現代、そして未来へ──」に『제주、몽골을 만나다』の内容に関連したテーマを報告するよう請われたのである。これを筆者が引き受け、二〇一三年一一月一五日にシンポジウムで発表した後、本書の出版へとつながっていく。
(…後略…)