目次
はじめに
第1部 本音がみえないから人間関係はムズカシイ――日常を語る
京都
絵/イラスト
いじめ
英語
講演
家族
第2部 考えることがやめられないわたしとの付き合い方――個人史をたどる
父と母/叔父と叔母
『隣る人』
家族の死
祖父
記憶
第3部 乾いた心を潤す音楽、ラジオ、本――楽しみを広げる
Mika
エレファントカシマシ
グレン・グールド
ラジオ
熱い/冷たいメディア
第4部 いつでも出入り自由の共同体なら生きていける――映画から世界を眺める
『ウルトラミラクルラブストーリー』
『インスタント沼』
『リンダリンダリンダ』
『どんてん生活』
『リアリズムの宿』と『マイ・バック・ページ』
つげ義春
第5部 孤独を感じるなら、それは何かの始まり――自閉症スペクトラムは文化である
アスピーの発見基準
文化多様性
くすり
「フツー」とは何か
定型発達研究――集団というひとつの生物
おわりに
小道モコ★コラム
あたしの表現
胆に響く言葉
社会という幻影
つぶやき
no need to be worried
I dream of you
花彩る春を
思考のループ
七匹の子ヤギ
わたしの中に流れる曲
相手の気持ちになる?
「孤独」という源
リクツ
高岡健★コラム
吉本隆明の遺したもの
死別について
イマジナリーコンパニオン
視覚と音楽
はたして相手の気持ちになれるのか?
定型発達研究としての「フツー」
前書きなど
おわりに
生活が真に豊かになるとは、どういうことだろうか。私などが先達から教えられた基準は、次のようなものだった。
一週間のうち、勤労日が三日半以下であること。家計のうち、食品・光熱・医療費といった基礎的支出よりも、教育・教養・娯楽費といった選択的支出が上回ること。これらの基準を満たす人々が過半数を超えるなら、人々が暮らす社会は革命といっていいほどの豊かさへ向かっていることになる。
だが、ほんとうは、もう一つの基準があると思う。それは、精神的豊かさの基準だ。
定型発達者は、しばしば集団から外れることを恐れ、また自らのこだわりがどの程度までなら許されるかを気にかけている。定型発達者の不自由さと言い換えてもよい。私は私であるはずなのに、定型発達者としてのルールの範囲でのみ、生きることが認められる。このような不自由さの割合が、生活全体の半分以下にまで縮小されたときに、はじめて定型発達者は精神的豊かさを手に入れることができるといいうる。
同様に、非定型発達者には、ありのままに生きようとすれば、少なからず定型発達者によって決められたルールによってはねかえされるとともに、その一方で自ら築いた生き方のスタイルが自同律のように自分自身を縛ってしまう不自由さがあるに違いない。私は私であるはずなのに、非定型発達者として規定された範囲でしか、生きることが認められなくなる。このような不自由さの割合が、やはり生活全体の半分以下にまで縮小されたときに、はじめて非定型発達者は精神的豊かさを手に入れることができるのではないか。
定型発達者にとっても非定型発達者にとっても、精神の不自由さが生活全体の半分以下にまで縮小されてはじめて、ほんとうの豊かさを手に入れることが可能になるということだ。そして、ほんとうのコミュニケーションもまた、このような精神的豊かさを基盤にしてしか成立しない。
ところで、本書中に記してあるとおり、しばらく前の夏に高知で開催された「登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク」の集まりで、私ははじめて小道モコさんにお会いすることになった。高知へ向かうJRの車中で、私は小道さんの著書『あたし研究』を読んだ。それまでにも自閉症スペクトラムを有する人が著した本を何冊か読んでいたが、この本の水準は頭抜けているぞ、というのが私の率直な感想だった。
自閉症スペクトラムを有する人たちの自伝や親の手記には、「障害」の解説に終始しているものが少なくない。そうなると、いわば歩く教科書として読まれてしまう。それはそれで意義があるが、一方で自閉症スペクトラムを有する個々人に固有の表現が(本書で用いた吉本隆明の言葉でいえば自己表出が)含まれていないことを、私はいつも残念に思っていた。ところが、小道さんの本だけは、「障害」について記してある箇所でさえ自己表出になっている。これは驚きだった。
高知での集まりが終わってほどなく、小道さんから私へ便りがあった。そのとき以来、電子メールを介した遣り取りを続けるうちに、それらを対談集の形で上梓してみたいという考えが浮かんだ。小道さんの賛同を得て、二人でメールに加筆修整を加え、それにコラムと小道さんの手によるイラストを追加して出来上がったのが本書だ。
(…後略…)