目次
はじめに(山下祐介)
今、原発避難をめぐって起きていること
帰還政策の進行
奇妙な出来事たち
国民の不理解が深く関わってこの事態ができている
本書作成の経緯
本書の構成
第1章 「不理解」のなかの復興
理解の難しい問題
「もう帰れませんよね」
多重のダブルバインドから抜け出るために
復興とは何か?
「帰還が復興である」
復旧と復興
人なしでも復興になり得るのか
公共事業として進む復興
人のいない復興へ
支援とは何か?
「何をすればいい?」
支援者が被災者に依存している?
被災者への責任転嫁?
支援がつくる人間の非対称な関係
支援のなかの人、コミュニティのなかの人
本来復興は自然におきる、でも今回は?
あきらめと断ち切り
依存と自立のジレンマ
福島県内に戻ることの意味
理解されないから耐えられなくなる
日本人一人ひとりは捨てたものではない……のだが
日本という国の岐路
この国の実態に気がついてしまった
近代的統治とキリスト教
西欧発のツールを、日本人は使いこなせるか
日本社会のいびつさ――負けたものは負け
本当の復興が見えるなら
各論1 私はどう避難したのか――富岡町民の一人として(市村高志)
富岡から東京までの避難経緯
とみおか子ども未来ネットワークの意義
第2章 原発避難とは何か――被害の全貌を考える
二つの避難から帰還政策へ――事故からの2年を振り返る
原発避難の二つの意味
第1期(2011年3月11日~12月16日)――「ともかく逃げろ」から、警戒区域・計画的避難区域の設定へ
第2期(2011年12月16日~2013年3月末)――事故収束宣言から警戒区域の解除、避難指示区域の再編まで
第3期(2013年4月以降)――避難指示区域の再編以後
避難の経緯とその心性――何からどう逃げてきたのか?
「なぜ、着の身着のままの避難だったの?」
振り返ったら帰れなくなっていた――「え? 本当?」が続いている
避難で感じた得体の知れない恐怖
爆発はもうしないよね
賠償が欲しいから帰らないのか?
賠償問題に潜む不理解――「賠償もらってよかったね」
本質としての原状回復論――「元の放射能のない地域に戻してくれ」
時間感覚のズレが賠償の意味を変える
「生活再建したいなら、早く和解したら?」
広域避難を引き起こしたもの――なぜそこにいるのか?
安全よりも安心を求めた広域避難
福島県内にとどまる人、戻る人、再び出ていく人
信頼、安心、裏切り
事故を起こして、「もうないから信じてね」と言われても信じられるわけがない
「戻れないのが分かってきた」と「もう戻れないですよね」の間
避難とは何か? 被害とは何か? 被災者とは誰か?
「帰らない」と決めれば避難は終わる?
強制避難、自主避難、生活内避難
危険からリスクへ――避難の矮小化が起こっている
1階だった家が突然30階になる
一人ひとりの復興論/家族と地域の復興論
被災は死ぬまで残る、被害は賠償でとれる
自主避難と強制避難の間――「避難する権利」をめぐって
コミュニティが壊れた
被災コミュニティ問題――「コミュニティなんか要らない?」
コミュニティのもつ固有の価値
日本が二つの社会に分かれている
くっついていたものがすべて一緒になって壊れている
避難している現実から
各論2 タウンミーティングから見えてきたもの――多重の被害を可視化する(佐藤彰彦)
事故対応や避難の経緯から――問題は多様・複雑・深刻に
「暮らしや人生すべてを失った」――個人レベルで聞かれる声
「ふつうにあった暮らしを取り戻したいだけ」――家族レベルで聞かれる声
苦労して築いた社会関係、同じものは手に入らない――集落レベルで聞かれる声
「帰る/帰らない」と「町民でいる/いない」は別――自治体レベルで聞かれる声
第3章 「原発国家」の虚妄性――新しい安全神話の誕生
原発立地は理解できるか?
なぜそこに原発はあったのか?
脱原発は、原発が突然目の前に現れたから?
「なんで原発のそばに住んでいたの?」
原発を全部止めたらどうなる?――正義としての原発
原発事故は人生の全否定
マクドナルドのアルバイトまで原発の恩恵を受けたということなのか
地方の問題から、国の問題へ
国家がリスクに賭けた失敗
300人の3分の1――エネルギー政策を考える
すべてが関わっている
おいしいとこ取りだったはずの原発政策
安全神話から、新しい安全神話へ
「安全を安全と言って何が悪い」――事故以前の保安院
「俺らには原子力の取り扱いはできない」
原発立地をめぐる不理解
新しい安全神話へ
強要さえなければよい……のだが
各論3 とみおか子ども未来ネットワークと社会学広域避難研究会の2年(佐藤彰彦)
TCFと研究会のなれそめと活動経緯
不理解がもたらすこと――一つのエピソードを例に
研究会がTCFと関わるなかで生じたこと・分かったこと
本質的な問題を理解し、解いていくために
第4章 「ふるさと」が変貌する日――リスク回避のために
「ふるさと」を失ったのではない、「ふるさと」になってしまった
「ふるさとに束縛されないほうがいいんじゃないですか?」
「ふるさと」の意味が違う――人生がなくなった
政策のなかのコミュニティと生活再建
「かわいそうな被災者」で何が起きるか
事業に乗らない「わがまま」な被災者
津波災害との違い――賠償と放射線リスク
すべてを失った、しかも政策と科学が絡んで復興できなくなっている
いじめられている感覚
平準化の結果としての全否定――人生の、そして歴史や文化の
津波災害との違いは原因だけ
「原発災害は賠償が出ている分、恵まれている?」――賠償を損得で考えている
「俺らは加害者にはなり得ない」
原発事故は影響が大きすぎる
影響の長さと健康被害――脱原発と差別問題
責任の取り方から、「許す」まで――プロセスがない
押しつけのメニューで果たす責任?
危険自治体は避けられるか?
負の予測のシミュレーション
警戒区域設定に伴う自治権限の問題について
警戒区域の解除と避難指示区域の再編が意味するもの――安全よりも復興
帰らざるを得ない人、帰りたくても帰れない人
住民が選択できること、自治体が選択できること
もう一つの住民の可能性
中間貯蔵施設と最終処分場の行方
安全の自治をないがしろにした結果としての原発事故
排除が導く追い込み――民主主義こそが危険なものを生み出す?
切り札としての二重住民票とバーチャル自治体
「じゃあどうすればいいの?」
被災者がなすべきこと――タウンミーティングで声をあげ、自治体につなげる
強い集合ストレスを自覚する――回復する共同体
「俺らって何だ? 専門家って何だ? 科学者って何だ?」
分化したシステムに横串を通す
国民レベルのミーティングへ――信頼できる総合政策の形成へ
世論をつくるのは一人ひとり
被災者は闘っている――浮き板をひっくり返す
追記
注
おわりに(市村高志)
前書きなど
はじめに(山下祐介)
(…前略…)
本書の構成
本書の構成は以下の通りである。
第1章では、まずこの原発避難の問題とは何かを考えるための大前提として、この問題がなぜこれほどまでに分かりにくいのか、その構造を考えていく。今述べた「不理解」というキーワードについてここで詳しくふれ、さらにはこの問題を記述するにあたって欠かすことのできない「復興」「支援」といった基本用語についても、これらのもつ曖昧さを追求し、避難の現実のなかでの本来の意味を問い直していこう。
その上で第2章では、原発避難とはいったい何なのか、何がこの2年の間に起きてきたのかを示し、そこからその被害の全貌をとらえていく。おそらく、原発避難問題の全体構造が見えている人は、メディアや政府関係者のなかでもごく一部ではなかろうか。しかも事態は進行中であり、これまで起きたこと、今目の前に起きていることだけでなく、これから何が起きるかをどう先取りするかによって、避難・被害のあり様は変わってくる。放射線リスク問題という、未来を組み込んだ被害論の可能性についてもここで展開していこう。
その上でさらに、避難問題をひもとくために超えねばならないもう一つの重要な論点として、第3章で原発立地の問題を掘り下げる。この議論を通じて、原発避難問題の本当の広がりについて考えてみたい。議論は良くも悪くも国民自身の問題だという方向に進むだろう。そしてどうも、いわゆる「原子力ムラ」だけの問題であるかのように扱われてきた「安全神話」が、今この国民全体のうちにも展開し、それがすでに福島の被災者に対して暴力的な作用を引き起こしつつあることにも注意をうながしたい。
最後にこの問題が行き着く先を第4章で考える。ここでは二つの方向で議論したい。第一の方向は今のまま何も手を打たずに行けばどうなるか、そこに潜む巨大なリスクを提示することである。それが示されることによって、この問題が、決して避難者だけの問題などという範疇で終わるものではないことが分かってくるだろう。そして第二の方向は、この最悪の事態を避けるための手段を考えるものだ。そのうちの一つが、とみおか子ども未来ネットワークが試してきたタウンミーティングを中心とした活動である。もっとも、こうした住民の活動は、この問題を乗り越えていくための手がかりの一つにすぎない。
この巨大な問題を解くためには、さらにもっと大きなものが動かなければならない。その最大のものは国民自身の変革のようだ。そのために必要なこと、逆にいえば、我々にとって変革の制約になっていることを、この章の後半に列挙してみた。もっともこの記述は不十分である。だがこれは、読者とともに未来を切り拓くための扉を開ける作業と理解してほしい。
この問題は、たった3人の手で何かを見通せるものではなく、ここで示したものはごく小さな一つの視点でしかない。だが、示したものはそれでも、方向性としては誤りではないという確信もある。とはいえ、この問題の解決に向けては、我々の力などは何ほどのものでもない。本書が、多くの人がこの問題のもつ真の問題性に気づき、この国の世直しへと参画する、そんなきっかけになればと願っている。
(…後略…)