目次
「叢書グローバル・ディアスポラ」刊行にあたって
はじめに
序章 アメリカ大陸をめぐる人の移動(中川文雄)
第1章 プエルトリコ人ディアスポラ(志柿光浩/三宅禎子)
第2章 米国におけるキューバ人ディアスポラ──特別な地位から同化へ(山岡加奈子)
第3章 米国におけるメキシコ人ディアスポラ──故郷離散とトランスナショナリズムの狭間に(吉田栄人)
第4章 在外ペルー人が問いかけるもの──グローバル化のなかのナショナル・アイデンティティの行方(山脇千賀子)
第5章 在外アルゼンチン人はディアスポラか?──欧州・米国・アジアの事例から(セシリア・オナハ/シルビア・ゴメス[山脇千賀子:訳])
第6章 ブラジル人ディアスポラ
[1] ブラジル人ディアスポラ概観──国内・隣国・その他の地域への人口移動の変遷(田島久歳)
[2] 日系ブラジル人ディアスポラの精神史(田島久歳)
[3] 在日ブラジル人による表現活動の戦略と意義──音楽家の事例を中心に(アンジェロ・イシ)
[4] 在日ブラジル人の宗教生活(山田政信)
終章 ラティーノの可能性──出移民地域としてのラテンアメリカをめぐる国際的取り組み(山脇千賀子)
おわりに
巻末資料
索引
前書きなど
はじめに(中川文雄・田島久歳・山脇千賀子)
ラテンアメリカの基層には移動性が組み込まれている。にもかかわらず、私たちはラテンアメリカといったら地球上の大きな地理的位置を占める「不動」の南北アメリカ大陸を思い浮かべることが多いのではないだろうか。そして、南北アメリカ大陸をその他の地域から切り離してしまう。そこで起こることを南北アメリカ大陸に閉じ込めてしまい、その特殊性として理解しようとしてしまう。
わたしたちが本書をつうじて表現しようと試みたのは、そのような「不動のラテンアメリカ」に対抗するような「フローのラテンアメリカ」像と言えるかもしれない。または、ラテンアメリカが地球上の人間の交通のなかから浮かび上がってくる様と言ったらよいだろうか。
一六世紀にヨーロッパ人がアメリカに到来して以降、ラテンアメリカは何よりもヨーロッパと対置されることによって理解されてきた。しかし、だからといって常にヨーロッパにとっての他者であったわけではない。ヨーロッパ人は征服者・植民者・統治者・旅行者などとして、新大陸との関係を構築してきた。その結果、時と場合によっては、ラテンアメリカはヨーロッパの最深部または最先端にもなる。つまり、ヨーロッパの自己が拡張されたものであり、同時に、ヨーロッパの自己が決定的な変容を遂げて他者となったものと言えるかもしれず、あるいはヨーロッパと対立・拒絶する他者として位置づけられるかもしれない。
一九世紀にヨーロッパ宗主国からの独立を達成して以降、定住民にメンバーシップを限定する近代国民国家体制がラテンアメリカに導入されたが、それでも流出入する人たちが国家の枠組みを越えて交流する場——トポスであることに変わりはなかった。植民地時代よりアメリカ先住民とヨーロッパ人とアフリカ人の間での混血が進んできていたが、独立以降は中国人・日本人やインド人などに代表されるアジアの人々も流入するようになった。同様にアラブ系移民も確実にラテンアメリカ社会の一部になってきた。一九二〇年代、メキシコの文部大臣を務めたバスコンセロスの著作では、ラテンアメリカにおいて地球上の「すべての血」が混ざり合って「宇宙人種(raza cosmica)」が生み出されるだろうと言われた。いわば「人類のフロンティア」とでも言えようか。そして、ラテンアメリカがそういうフロンティアであることを積極的に評価している。
興味深いことに、こうしたフロンティア精神は、現在にいたるまで南北アメリカ大陸において文化的心性として存続しているようにみえる。フロンティアを開拓したいという欲望は、地理的移動と社会的上昇とを結びつけて想像するメンタリティと言ってよいかもしれない。これは、一般的な近代国民国家体制においては、定住者を構成員として想定しているため、地理的移動が「正常な」枠組みからの逸脱・社会的失敗・没落などのようなネガティブなイメージと結びつけられる傾向があるのとは対照的と言えよう。
近代国民国家体制のもとで定住者によって国家や社会が構成されるというイメージが当たり前のものとなってしまったようにみえるが、そうしたイメージに挑戦して、絶えず移動する存在の関係性によってラテンアメリカにおける国家や社会が成り立っていることを表現してみたい、というのが本書のもくろみである。
(…後略…)