目次
はじめに——人間の社会も弱肉強食か
第一章 生物の行動を決めるもの
第二章 弱い動物は一方的に食われているか
第三章 強いものだけが繁栄するか
第四章 弱肉強食の種々相
第五章 進化の果てヒトは現代人にたどりついた
第六章 人間のなかの弱肉強食性
第七章 岐路に立つ現代人
あとがき
前書きなど
はじめに——人間の社会も弱肉強食か
(…前略…)
いつ食われるかわからない時代
いまや老人や社会的弱者だけでなく、だれにとっても先が読めない時代になった。重い病気にかかったときに受け入れてくれる病院や施設はどこか、費用がどれくらいかかるか、まるっきりわからなくなってきた。最近では、救急病院が受け入れを拒否するケースが多発している。経営者は技術開発や商品開発しか頭になく、同業他社より強く大きくなることしか考えていない。彼らの多くは利益を社員に還元しようとしないで、社員を交換のきく部品のように考えはじめている。労働条件のほうも経営者に有利になるばかりで、雇用形態や労働時間の問題に見られるように、労働者に不利になるよう改定されてきた。金融危機に直面した企業がとった非正規雇用者の解雇などは、それを如実にあらわしている。
アメリカではCEO(最高経営責任者)の年収が、ふつうの労働者の四三一倍(二〇〇四年)にもなっているという。イギリスやフランスやドイツでも、白人の若者の労働者が貧困層に転落していると伝えられている。ここに等しく見られるのは、突出した強者=勝者と、一般化した弱者=敗者という図式である。途上国でもまた、大勢の弱者が抑圧されている。
文明社会が行きつくのは、動物と同じ弱肉強食の世界だろうか。競争原理が支配する社会では、少数の人間しか勝者になることはできない。全員が大金持ちになることは望めないのだ。社会全体がある程度豊かだとしても、格差が広く行き渡れば、人々の間に鬱屈した不満が高まらざるをえない。世界はどこまでいっても少数の勝者と、行き場のない不満をかかえた大多数の敗者で構成されるのだろうか。
一九世紀の進化論と、二〇世紀の「エソロジー」(行動学)や「エコロジー」(生態学)という学問が明らかにしたのは、人間と動物の行動に強いつながりがあるということだった。確かに人間は動物から進化した生物だ。しかし、人間と動物の間には、つながりがありながら明確な断絶があることも明らかである。人間は、ヒトという、動物の一種だ。分類学では、脊椎動物門哺乳綱霊長目ヒトニザル上科ヒト科となる。ヒトは進化の結果、動物としてのひとつの系統の性質を遺伝子のなかに保っている。ヒトは、生活形を同じくする個体からなる「ヒトの種社会」が基層となり、自らがつくりだした道具によって組織化された「人間社会」で暮らす。進化史で受け継がれてきたヒトと動物と共通項は、この二重の階層的あり方を介してあらわれる。本書のテーマである弱肉強食も、そのひとつである。人間の社会が弱肉強食かどうかを考えるためには、まず動物たちの社会の仕組みを見て、人間社会と比較することが必要だ。
本書では、私が五〇年以上かかわってきた動物学とその考え方である「進化生物学」をもとに、現代の論理的人間観として人間を生物の種の「ヒト」(本書では、生き物の種として人間をとらえる場合、仮名書きの「ヒト」と表記する)としてとらえ、人間の社会と文化と、そのなかでの「弱肉強食」について考えることにしたい。