目次
はしがき
凡例
はじめに フェミニスト的望みとポストコロニアル的状況(ライラ・アブー=ルゴド)
第一部 一九世紀——フェミニズムの始まりの書き直し
第一章 一九世紀エジプトにおける女性・医学・権力(ハーレド・ファフミー)
第二章 アーイシャ・タイムールの涙——一九世紀エジプトについての近代主義的言説とフェミニスト言説の批評(メルヴァット・ハーテム)
第二部 一九世紀末葉から二〇世紀初頭にかけて——母・妻・市民
第三章 教養ある主婦をつくり出す——イランにおける取り組み(アフサーネ・ナジュマバーディー)
第四章 教育を受けた母、構造化された遊び——一九世紀末から二〇世紀初頭のエジプトにおける育児(オムニア・シャクリー)
第五章 エジプトにおけるジャンヌ・ダルクの様々な生(マリリン・ブース)
第三部 二〇世紀後期——イスラーム主義・近代化論・フェミニズムの多様性
第六章 フェミニストから逃れ、近代性の打倒をはかる?——二〇世紀イランにおける変化(ゾホレ・T・サリヴァン)
第七章 エジプトにおけるフェミニズムとイスラーム主義の蜜月——ポストコロニアルな文化ポリティクスとしての選択的拒絶(ライラ・アブー=ルゴド)
結び トルコの女性と近代性をめぐる、厄介な問題(デニズ・カンディヨティ)
訳者あとがき
参考文献
索引
前書きなど
はしがき
近代化事業は女性にとって何を意味したのか——。近年の中東研究には、この問いをまったく新しいやり方で問い直す姿勢が現れつつあることを、私は強く意識するようになった。そしてこの感覚を追究していく中で、本書の構想が次第に浮かび上がってきたのである。こうした新しい姿勢は、「女性をめぐる問い〈ウーマン・クエスチョン〉」に関する研究の積み重ねによって可能になった。詳細な歴史的研究や、今日的状況の批判的な社会分析、活発な知的議論などを特徴とするような学問分野が、この二〇年の間に発展してきたのである。また、中東のフェミニスト研究者たちが、ヨーロッパや南アジアなどの地域についての、あるいは、そうした地域から生まれた今日的な学説・理論や歴史的研究を広範に読み、その成果を取り入れたこともこの変化に大きく寄与している。
(…中略…)
本書は、中東の全地域を取り扱ったものでもなく、こうした問題に取り組むすべての研究者を集めたものでもないという点で、包括的な研究とは言えないかもしれない。しかし、中東はあまりに広大で、そのジェンダー研究の蓄積はあまりに層が厚い。一冊で中東に関するすべてを取り扱うことなど不可能であろう。本書では、エジプトとイラン、トルコの三ヶ国のみを取り扱う。中でも、エジプトに関する研究が明らかに多くを占めている。このことは、学術的な見地から正当化しうるが、執筆者それぞれとの個人的な偶然によるところも大きい。この三ヶ国はそれぞれ近代化改革をその歴史に刻んできた、域内の主要国家である。また、本書で挙げられた参考文献の数々が示すように、手付かずの原典資料や相当量の学術的な調査や分析の蓄積が存在するのも、またこの三ヶ国なのである。このことは、より適切な理由のように思われる。というのも、フェミニズムを研究する者は、そうした資料や過去の研究を用いることができ、またその上に新たな議論を組み立てることができるからである。こうした資料の決定的な豊富さこそが、冒頭に述べたフェミニズムと「近代性の政治学〈ポリティクス・オブ・モダニティ〉」の関わりを問い直そうとする姿勢の変化を生み出したのである。
上述してきた論題を追究する知己の研究者を集め、議論を深めていくことで、私はこうした変化に形を与えようとしてきた。人を集めること——それは、まさに個人的なつながりという偶然の妙が入り込む場所であった。関連するすべての研究者を集めることは勿論できなかった。現在の執筆者以外の者が含まれていれば、あるいは、この三ヶ国以外の中東国家を扱う者が参加していれば、本書がより良いものになったことは間違いない。それでも本書の執筆者となった者たちは、互いに刺激を与えながら、すばらしい成果を生み出した。私が望んだことは、本書に集められた論考が示唆に富むものであり、中東のジェンダーとフェミニズムの話をさらに引き出し、さらなる対話や調査を促進するものとなることであった。また、私たちが中東の歴史や現代社会の状況について考察したことが、たとえこの地域に特有のものであったとしても、その他のポストコロニアルの社会やその歴史を探究する学徒にとっても有益なものになると信じている。私たち自身、そうした研究から多くのことを学んできたのだから。
(…後略…)