目次
はじめに(佐藤慎司、ドーア根理子)
第1部 理論的枠組み
第1章 ことばと文化の標準化についての一考(久保田竜子)
はじめに
1 ことばの標準化
2 文化観の標準化
3 標準化への抵抗
4 批判応用言語学
5 残された課題
第2部 言説分析
第2章 言語をどのようにして数えるのか——翻訳という実践系(酒井直樹[佐藤慎司、ドーア根理子訳])
1 一つの中の多数
2 対—形象化の図式
3 非連続の連続としての翻訳
4 制作的技術としての翻訳の実践系
第3章 「通じること」の必要性について——標準化のイデオロギー再考(ドーア根理子)
はじめに
1 言語イデオロギーと標準化
2 日本語、国語、標準語、方言、共通語という概念の普及
3 「通じる」ということについて——英語に関する議論を中心に
4 将来への展望
第4章 日本語における女性の言葉遣いに対する「規範」の再考察(岡本成子)
はじめに
1 ことばの社会的意味と言語イデオロギー
2 先行研究にみる女性の言葉遣いの規範——歴史的概観
3 批判的視点からみた女性の言葉遣いの「規範」
おわりに
第5章 日本人の思考の教え方——戦後日本語教育学における思考様式言説(牲川波都季)
1 ナショナリズムと日本語教育
2 第 I 期:日本語教育で復活する「日本語=日本人の思考様式」
3 第II 期:「日本語=日本人の思考様式」を習得させる日本語教育
4 第III期:「日本人の思考様式」と「○○人の思考様式」の差異化を促す日本語教育
5 結論
第3部 テキスト分析
第6章 「日本語を学ぶ」ということ——日本語の教科書を批判的に読む(熊谷由理)
はじめに
1 「批判的に読む(critical reading)」ことの意義
2 初級日本語教科書『げんき』
3 教科書『げんき』に見られる「標準的なこと」「正常なこと」
4 ディスカッション——「標準語」「完璧なコミュニケーション」
おわりに
第7章 日本文化を批判的に教える(久保田竜子)
はじめに
1 ナショナルスタンダーズと文化の本質主義批判
2 文化を教えるための批判的アプローチ——4D
3 教科書の中の文化的情報についての批判的理解——実際例
4 結論
第4部 エスノグラフィー
第8章 年少者日本語教育はどのように語られているか——関係論的観点からの批判的検討(神吉宇一)
はじめに
1 言説および言説分析
2 年少者日本語教育研究における言説
3 異なった観点
おわりに
第9章 作り作られる国語/日本語——言語標準の歴史と保育所での実践(佐藤慎司)
はじめに
1 問題提起——日本語が乱れている
2 共通語、正書法の歴史的背景
3 国語と教育
4 データ——保育所の言葉遊び
5 結論
第10章 日本語教室におけることばと文化の標準化過程——教師・学生間の相互行為の分析から(熊谷由理)
はじめに
1 「正しさ」の構築・消費・再生産
2 調査研究の概要
3 日本語・日本文化の標準化の過程
4 ディスカッション:ことば・文化の標準化過程についての考察
おわりに——「標準化過程」の中断、教室内での「対話」へむけて
第11章 日本語教育における母語指導に関する言説についての一考察——中国帰国者と在日ベトナム人を対象とした日本語教室の実践を事例として(大久保祐子)
はじめに
1 教育と社会、文化研究における2つの視座
2 国家のヘゲモニーとしての「日本語教室」
3 フィールドワークより——A小学校の事例から
4 考察
5 まとめと提案
第12章 沖縄日系ディアスポラ、国語、学校——ことばの異種混淆性と単一化の民族誌的考察(高藤三千代)
はじめに
1 分析枠組み——ことばの社会性と言語的近代イデオロギー
2 背景——改正入管法と言語教育政策の欠如
3 沖縄と「国語/日本語」教育
4 櫻小学校と国際教室
5 話しことばと書きことば——文脈と知の様式
6 越境移住、「母語」、国語
二項対立的図式を超えて
前書きなど
はじめに(一部抜粋)
(…前略…)
本章に載せられた論文は人類学、東アジア研究、外国語教育、社会言語学の様々な角度から日本の文化とことばの標準化を分析し、問題提起することを目的にしている。
本書は4部構成で、第1部「理論的枠組み」は本書の諸議論に関連する理論的諸枠組みを紹介、確認し、第2部「言説分析」は言説のレベルでの言語イデオロギーの分析、第3部「テキスト分析」は日本語教育に使われる教科書のテキスト分析、第4部「エスノグラフィー」は民族誌的手法で実際の教室風景の参与観察をもとに、それぞれ文化とことばの標準化について考察する章から成る。
第1部では、1章「ことばと文化の標準化についての一考」で久保田竜子がことば、文化観の標準化とそれへの抵抗、言語のディアスポラ、ノンネーティブスピーカー(非母語話者)、批判リテラシー・批判多文化教育、批判応用言語学を中心に、本書の議論に関わる理論的諸枠組みについての概観を行う。
言説レベルの分析を中心とした第2部では、2章「言語をどのようにして数えるのか—翻訳という実践系」で酒井直樹は、言語を数えられる統一体とする考え方について、近代、国民国家の出現、そして翻訳という概念の誕生を通して批判的に考察する。3章「『通じること』の必要性について—標準化のイデオロギー再考」ではドーア根理子が、日本語の標準化の根底にある「日本人は全員お互いに言葉が通じなければいけない」という考え方は標準化を正当化する言語イデオロギーであるとして批判的に分析し、そのようなイデオロギーを超える方法を考察する。4章「日本語における女性の言葉遣いに対する『規範』の再考察」で岡本成子は研究者などによって「女性語」とされているものは、女性の言葉遣いを規範化する支配的言語イデオロギーの反映であって、実際の言語使用を正確に描写したものではないという認識が高まっているが、その規範というものの内容そのものを再考察する必要があるとし、規範を「女性語」といった個々の言語使用の文脈から遊離した抽象的なものとしてとらえる見方を批判し、話者がそれぞれのコミュニティーや会話の場面など文脈にふさわしいと思われることばを選ぶというローカルな規範意識とその流動性、多様性に注目することを促す。5章「日本人の思考の教え方—戦後日本語教育における思考様式言説」では、牲川波都季が日本語教育における「思考様式言説」の変遷を終戦直後から現在までにわたり批判的に追い、第二次世界大戦中までの帝国主義と結びついた「日本語=日本精神」という考え方が戦後に引き続き見られること、さらに現在の多文化教育的実践の言説中にも日本的思考様式を本質化する傾向が見られることを指摘する。
教科書のテキスト分析を中心とする第3部では、6章「『日本語を学ぶ』ということ—日本語の教科書を批判的に読む」で、熊谷由理は教科書をイデオロギーの伝達装置としてとらえ、学習者が日本語を学びながら教科書の中に含蓄された日本や日本語をとりまくどのような「標準的」価値観、常識、日本人像、行動様式の規範を学ぶことになるのか考察する。7章「日本文化を批判的に教える」で、久保田竜子は日本語教育に見られる本質主義的な文化の概念を批判し、(1)文化の記述的な理解、(2)文化の中の多様性、(3)文化の流動的な特質、(4)言説によって構築されたものとしての文化の理解という四つの視点から成る文化の概念モデルを提示する。
民族誌的アプローチをとる章を集めた第4部では、8章「年少者日本語教育はどのように語られているか—関係論的観点からの批判的検討」で、神吉宇一は日本に在住する日本語を母語としない児童生徒に対する日本語教育および学習支援についての支配的な言説を「能力」と「標準化」という観点から批判的に検討し、対抗言説をフィールドデータをもとに提示する。9章「作り作られる国語/日本語—言語標準の歴史と保育園での実践」で、佐藤慎司はローカルなレベルで共通語、正書法という言語標準がいかに維持、再生産されているかを、子どもたちがはじめて国家制度に接する場、保育所での様子を分析することによって明らかにし、それを近代からの日本語の歴史の中に位置づける。10章「日本語教室におけることばと文化の標準化過程—教師・学生間の相互行為の分析から」で、熊谷由理はあるアメリカの大学の日本語教室で行った参与観察、インタビューのデータをもとに、授業中の教師・学生間の相互行為によっていかに日本の文化、ことばが標準化されていくかを明らかにする。11章「日本語教育における母語指導に関する言説についての一考察—中国帰国者と在日ベトナム人を対象とした日本語教室の実践を事例として」で大久保祐子は、多文化共生教育を実施する小学校での中国帰国者と日本生まれのベトナム人を対象とした日本語教室と民族クラブの実践を地域社会や日本社会というマクロな文脈において分析し、日本語・日本文化の脱「標準化」を目指して母語指導を強調することが、逆に非・日本人という刻印(マーカー)を子どもに与え、彼らが日本社会で疎外感をもつことにつながると議論する。12章「沖縄日系ディアスポラ、国語、学校—ことばの異種混淆性と単一化の民族誌的考察」で高藤三千代は、数世代にわたる越境移住というディアスポラ的状況にある日本に暮らす南米諸国からの日系移住者たちの学校を介した国家語(特に「日本語」)体験を分析し、国家語のもつ一元化的拘束力とそれと相反することばの混淆性(Heteroglosia)の過程について民族誌的に考察する。
(…後略…)