目次
まえがき
序章 病いと〈つながり〉の場(浮ヶ谷幸代)
——民族誌的研究の方向性
1 病いをめぐる苦悩の経験
2 集団をどう捉えるか
3 〈つながり〉の場研究のためのアプローチ
4 病いと〈つながり〉の場研究の枠組み
第1章 コミュニケーション不全を介して成立する〈つながり〉(山本直美)
——福祉施設「ユリノキ村」の事例から
1 排除されてきた人びとの居場所としてのユリノキ村
2 「誰をも排除しない」という方針
3 「場を共有する」という〈つながり〉のかたち
第2章 精神障害者の働く場はどのように形成されているのか?(間宮郁子)
——通所授産施設Aの事例から
1 「生活のしづらさ」を抱える人びと——「生活モデル」における精神障害者像
2 精神障害者たちの働く場
3 「僕らでもやれるというのが一番の想い」
4 〈つながり〉に支えられて働く場
第3章 介護者家族会における〈つながり〉(井口高志)
——認知症の人の「自己」をめぐるコミュニケーションが提起するもの
1 認知症をめぐる現在
2 情報・知識の伝達?
3 リアリティ形成のコミュニケーション
4 介護者家族会におけるコミュニケーションの実際
5 解釈活動の意義
第4章 自己注射の経験と〈つながり〉(濱 雄亮)
——1型糖尿病者の事例から
1 フィールドとしての糖尿病
2 自己注射ができるとき/できないとき
3 〈つながり〉の中での自己注射
第5章 「他者の場」に集う人たち(浮ヶ谷幸代)
——糖尿病患者会〈Yの会〉を例に
1 「他者の場」としての患者会
2 「生きられる場」と〈つながり〉
3 日常生活と接続する「他者の場」
4 病い、「他者の場」、〈顔〉のみえる関係
第6章 グローバル化の中の移植医療(山崎吾郎)
——海外渡航移植者の選択
1 移植医療をとりまく問題と海外渡航移植の概要
2 海外渡航移植者が作り出す医療空間
3 場と問題のねじれ
病いと〈つながり〉の場の民族誌が問いかけるもの——あとがきにかえて
前書きなど
まえがき
個の時代といわれて久しい。ただ、それは学問の領域で、またメディアの報道でそのように流布されているに過ぎない、といえなくもない。確かに、家族構成や居住形態の個人化、また家族の成員役割の変化は、職場や学校をはじめとして社会生活における人間関係に良い意味でも悪い意味でも大きく影響を及ぼしているだろうし、それを根拠にさまざまな領域で制度や役割の変更が迫られているという時代に来ている。しかし、だからといって、家族の絆や地域での人間関係は既に崩壊したと、言い切ることは早計であるし、問題の発生状況にのみ焦点をあてて個が浮遊しているポストモダン状況なのだと即断することも一面的である。
近年、そうした個の時代を超えるものとして、新たな絆や関係性が再構築されている、という捉え方がある。それは、NPOやアソシエーションに見られるように、個の主体性や自発性を出発点にした人と人との関係性であり、社会が喪失したとされる関係性を代替する機能としてクローズアップされている。そこでの新たな関係性というのは、非意図的な、つまり自分の意思に反した、もしくは意にそわない人間関係——それは概ね“しがらみ”ということばでイメージされているものであるが——ではない、自由に選び取ることができるという個人の主体性を前提にした関係性を評価する捉え方である。このことは、自由に選び取ることと同様、自由に破棄する、もしくは棄却することのできる関係性でもある、ということを意味している。
しかし、本書で紹介する人たちの多くは、人と人との関係性を自発的に、主体的に選び取ることができない環境条件の中で生きている人たちである。ある集団への参加は自由意思だとされても、参加する以外に生きていく手段が見つからない人、そこの集団しか生活する場がない人もいる。彼らにとって、たとえ参加することを自分の意思で選び取ったとしても、簡単に棄却することはできない。他方、たとえ参加しなくても日常の生活を送ることは可能である人たちもいる。可能ではあっても、抱えている問題が、日常生活における人間関係、しかも非意図的な関係性から生じているとすれば、個人で対処するには大変困難が伴うし、自分だけで抱え込むには負担が大きい。だからといって、日常での問題がらみの人間関係を自由意思で破棄できる人はあまりいない。集団に参加するのは、それを破棄するためというよりは、他者の異なる視点を参照しつつ、こじれた関係性を捉え直すためだったりもする。また、自発的、意図的に参加したとしても、そこでは図らずも生じた非意図的な関係性による新たな葛藤も生じている。
こうした現実を描き出すときに重要なことは、近年提示されている主体性や自発性を前提とした関係性を称揚する、ないしは退けるという二者択一的な視点にとらわれるのではなく、また個のありようを前提にした関係性のあり方に着目するのでもなく、関係性において立ち現れてくる個人の存在様式に着目するということである。こうした視点をとることにより、人と人との関係性における意図的、もしくは非意図的な関係性という分割は、あまり意味のある区分けにはならないと思われる。そこで、本書では、〈つながり〉のあり方として捉えうる人と人との関係のありようを、個の時代といわれる時代に特化する様式として描き出すというよりは、現代という時代に限らない人間関係の基底となる様式として抽出する可能性に関心を向けている。
本書では、人と人との関係のありようが顕著に現れる病い(障害、生活上の問題をも含意しているが、以下病いと総称する)を抱える人たちに焦点をあてて、彼らの考え方や感じ方、行動のあり方、とりわけその集合性についての場面を切り取り紹介している。その病いをめぐって家族関係や学校、職場での人間関係に小さな葛藤を抱えている人たちから、個のままでは生きていけない、存在すら危ぶまれる状況を抱え込んでいる人たちまで、さまざまである。では、そうした異なる状況でさまざまな〈つながり〉のあり方やそこで立ち現れてくる個のありようは、病いを抱えるがゆえの特有の現象であるのだろうか。執筆者全員、対象となるフィールドから見えてきた〈つながり〉のあり方、そしてそこに見出せる個の存在様式について、自分のフィールドを越えて問題を広げてはいない。だが、どの報告にも、そこで指摘している〈つながり〉のあり方、そしてそうした関係性から立ち現れてくる個のありようから、病いを抱える人と抱えていない人との間にある境界を超えて、人と人との関係性、共同性、人間の存在様式というテーマに接続していく可能性を見出すことができるだろう。
ここで、本書刊行に至ったプロセスを簡単に紹介しておこう。医療をめぐる民族誌シリーズ第1弾である『現代医療の民族誌』が2004年の3月に刊行されているが、その半年後、次刊の構想を練ったのが本書刊行の始まりである。当時、現代医療研究会に集まっている若手研究者の多くが、病いを抱える人たちが集まる集団でフィールドワークをしていた。そこで、次刊は、病いと「集うこと」ということをテーマにした論文集ができないものかと、企画したのである。ちょうど、その頃、『文化人類学』(第69巻第2号)に「共同体という概念の脱/再構築」(小田亮)という特集の中で、共同性についての新たな概念が提示されたことも刺激となった。
翌年、「病いと〈つながり〉の場の民族誌」というテーマを掲げて、文化人類学会で分科会を立ち上げた。分科会では5人の事例報告者によって、それぞれのフィールドから見えてくる〈つながり〉の場について報告してもらった。精神障害者を中心とした2つの社会福祉法人施設、補完代替医療のグループ、沖縄の民間巫者ユタを中心とした集会、アトピー関連のネットサイトである。従来、こうした集団は、障害学研究、宗教民俗学研究、インターネット研究など、異なる領域での異なる研究として扱われていたものである。そうした、一見、バラバラにみえる研究領域を1つのテーマにまとめて、そこに共有できる問いと概念を想定する可能性を摸索し始めたのである。それが、病いをめぐる苦悩の経験を抱える人たちは「いかに集まるのか」という問いであった。分科会では、コメンテーターの小田亮氏による共同性や場の概念の重要性、そして会場の波平恵美子氏からは場を捉えるための参与観察の重要性について貴重なコメントをいただいた。
分科会終了後、いよいよ刊行に向けて原稿準備に取り組むことになるが、2006年になって新たなフィールド(認知症介護者家族の会、臓器移植レシピエントの会、1型糖尿病者と家族の会)での執筆者が加わり、再度、概念枠組みの仕切り直しに取り組み、その後刊行にこぎつけたという次第である。本書の執筆者は、編者の1人、井口高志以外、みな文化人類学の研究者である。もともと、学際的研究を標榜している現代医療研究会を母体とするならば、学際的な領域からの参加が期待されるわけだが、本書は執筆者の研究領域に偏りが出ていることは否めない。しかし今回、社会学者の井口の参加により、学問的に「文化」の異なる社会学の視点から寄せられたコメントをもとに、執筆者間でメールを介しての議論が交わされたことは、企画の成果といえる。
各フィールド論文は、病い、〈つながり〉、場というキーとなる概念をそれぞれ扱っているので、読み手の関心にそってどこから読んでも部分的にはテーマに応えられるようになっている。一般的には、序章は各章を読み進むためのナビゲーターとなるはずであるが、本書では序章を経路の自由度を高めた地図のようなものとして位置づけている。したがって、この地図のようなものは、解釈の自由度に幅があるために、しばしば各章が扱うフィールドの文脈に応じて、また各執筆者の視点の置きどころに応じてずれを生じさせている。そのずれが、さらなる議論の展開のために、あるいはことばや概念の緻密化のために、今後寄与していくかどうかは読み手の判断に委ねたいと思う。
とはいえ、本書の最後に、こうした課題に積極的な意義を付与するために、半ば自己相対化を試みるような井口による「病いと〈つながり〉の場の民族誌が問いかけるもの——あとがきにかえて」という小論を載せている。これは、本書をいかに読むかという序章の構えとは異なっているが、本書の「楽しみ方」をより立体的にイメージするために、また扱っているテーマをより俯瞰的に思考体験するための補助線として位置づけている。ここから読み始めても、民族誌的「記述」による各章での取り組みを損ねることにはならないはずである。本書への評価は、執筆者内部に限らず、外部からの批判的検討によってなされるべきであることから、ぜひとも厳しいコメントを期待している。
ここで改めて、執筆者を代表して、本書で紹介される人たちに感謝の意を表したいと思う。執筆者全員、本書に登場する施設や集団の理解と協力、そしてそこに集まる人たちによる情報提供があってはじめて調査研究は成り立っていると思っている。それぞれ、具体的に実名をあげて一人ひとりに感謝のことばを伝えることは控えているが、本書で紹介した人たちに深く御礼を申し上げておきたい。今、病いをめぐるさまざまな苦悩を抱えている人たちにとって、本書がその苦悩をいくばくかでも減じたり、問題に対する見方を捉えなおしたりするきっかけとなることを願っている。また、医療専門家や福祉の専門家にとっても、自らの考え方や実践のあり方を省みる際に、また医療空間やそこに生きる人たちを通して、人間とは何か、という問いを再考する際に、本書がささやかなお手伝いとなることを期待している。
2007年2月24日
編者を代表して
浮ヶ谷 幸代