目次
序論 ポスト自治空間——2005年12・20早稲田大学におけるビラまき逮捕をめぐって[すが(糸圭)秀実]
第1章 公共空間の変容と監視社会
学問の自由と合州国のファシズム化[酒井直樹]
シニシズムの原理としての機会原因論[池田雄一]
市民社会の衰退 付・早稲田大学での逮捕に関する追記[マイケル・ハート/訳:大脇美智子]
第2章 サブカルチャーの監視・管理化
演劇教育の退廃——からだの解き放ちから遠く離れて[宮沢章夫]
「エロ」から始まる[松沢呉一]
第3章 大学空間の壊滅
政治による大学の破壊——〈都立大学問題〉の場合[初見 基]
大学の廃墟で——80年代の個人的経験[小倉虫太郎]
シンポジウム 大学改革と監視社会
[武井昭夫×笹沼弘志×入江公康×花咲政之輔×すが(糸圭)秀実、井土紀州+木村建哉]
早大文学部ビラまき不当逮捕を許すな!
[早稲田大学2005年7月22日集会実行委員会]
関連年表
編者あとがき
執筆者紹介
編者紹介
前書きなど
編者あとがき
本書は、2005年12月20日の早稲田大学文学部キャンパス内で起こった、警察導入=ビラまき不当逮捕事件(「建造物侵入」容疑)をきっかけにして、それに対する一連の具体的な抗議行動のなかから編まれることになった。編者の花咲は、このたびの事件の直接の淵源をなす2001年7月のサークル地下部室撤去反対闘争以来、大学当局から構内立ち入り禁止処分を受けている当該団体3名のうちのひとりであり、すが(糸圭)は花咲らの今回にいたる闘争の支援者のひとりである。本書の執筆者たちも、一連の抗議行動に署名やビラまきなどで直接にコミットした人間で構成されている。もちろん、運動は今なお持続しており、抗議行動に参加した法学部学生への処分をちらつかせた当局の弾圧が、新たに繰り出されている。その経緯については、当該、早稲田大学2005年7月22日集会実行委員会の文章に詳述されている。しかし、本書は、早稲田大学のみならず、今後の多様な運動の展開に資するべく作られた。
本書所収のマイケル・ハート「市民社会の衰退」は、ネグリとの共著『〈帝国〉』の前提をなす、きわめて重要な論文であり、現代世界を把握するのに不可欠の参照先だと言えるが、そこで論じられている問題が、早稲田大学の逮捕事件と密接に関係していることは、ハートが本書のために寄稿してくれた追記によっても明らかであろう。このたびの早稲田大学の逮捕事件が意味する多義的な広がりと重要性を示していると思われる。また、本書所収のシンポジウムにおける入江公康氏の発言も、それにかかわり参照されたい。本書序文として掲げられたの文章も、早稲田大学の問題と現代社会との連関を論じた心算である。
世間の耳目を集めた、2004年2月の立川反戦ビラ入れ逮捕事件(2005年、高裁で驚くべき有罪判決が出た)以来、いや、それ以前から、公安警察の主導による同種の「微罪逮捕」が頻発し、いわゆる「言論表現の自由」や「公共圏の危機」が語られているが、大学という特権的に「自治的」と信じられてきた場におけるビラまき逮捕は、早稲田大学の事件をもって嚆矢とする。これもまた微罪逮捕であり、一見して局地的かつ小さな出来事のように思われるが、おそらくは時代を画する決定的な「事件」であり、大学問題という範囲を大きくこえて、考察すべき多様な問題を惹起している。歴史は、このようにして目にみえにくいかたちで、しかしドラスティックに展開していくのだ。立川反戦ビラ事件から早稲田不当逮捕事件までの流れについては、シンポジウムにおける笹沼弘志氏の発言を参照されたい。
大学という領域に限っても、示し合わせたように、似たような事件が続いた。早稲田大学の事件の直後、2006年1月6日には大阪経済大学において、6人の革マル派系全学連の活動家が「傷害容疑」で逮捕されるという事件が生起し、さらに3月14日には、法政大学市谷キャンパスで中核派系全学連の活動家ら29人が「威力業務妨害」で逮捕されるという事件が続いている。本書では、後の二つの事件については時間的な理由その他から主題的に言及することはできなかったが、それらが持つ意味——早稲田大学の問題との関連性と差異——を、通時的・共時的に、おのずと(かなりの程度)明らかにするような論考が幾つか収録されている。小倉虫太郎氏の文章とシンポジウムにおける武井昭夫氏、木村建哉氏の発言は、そのパースペクティヴをうるに資するであろう。
ありふれた都市空間や大学キャンパスでビラをまいていただけで警察を導入し逮捕させるというような事態を、あたかも何の変哲もない日常的な出来事としてスルーしてしまうような状況が、今や現出しようとしている。「逮捕されたのは、早稲田の学生ではないではないか」、「抗議行動をしている学生は特殊な(!)人間なのだから、処分されてもどうということはない」、「放っておけば、事態は沈静する」云々——こういった気分が、今やキャンパスにも蔓延しているのである(では、続く法学部学生への処分攻撃はどうなのか!)。それでも、学生たちはこのたびの事件に敏感に反応しており、抗議署名に積極的な者も多いが、教職員は今回の事件に対してほとんど無関心をよそおっている。抗議行動で接するかぎり、職員は警察を導入してしまった教員の対応(直接には1教員によって警察が導入された)に呆れうんざりしていることもうかがわれるが、教員(専任)の多くは、早く事態が過ぎ去ることのみを願っているかのようである。そして問題は、事実、今回の事件が、一見すると、大したこともなく、そのうちに雲散霧消してくれるように見えるということなのだ。
しかし、大学の内外における、このような微罪逮捕の頻発こそが、今日の社会の統治形態を特徴づけるものなのではあるまいか。それらが主に公安警察によってなされているという事実こそ、それが「公共の安寧」という名の統治であることを示している。周知のように、公安警察による逮捕は、今や、起訴にもちこみ有罪判決を得ることは二義的であり、主目的は逮捕者や関係団体の家宅捜索と情報収集、そして予防的恫喝にあると言われている。事実、早稲田大学での事件も、公判維持さえ難しいところを裁判所も認め、逮捕者は不起訴・釈放となっている(法政大学の事件も然り)。しかし、起訴されないことをもって、このたびの事件が「大したことはない」とスルーしようとする態度は、問題をまったく取り違えていると言えよう。
問題は、むしろ逆なのである。それは、「公共の安寧」を多少でも乱す可能性を持つと見なされた者をチェックし、情報を収集してデータベース化することで、社会を予防的に統治しようとする監視=管理の徹底化を意味している。これが、グローバル資本主義によって階級・階層・エスニシティー等々の分離と分化、排除と選別が進行しつつある時代に応接しようとする統治形態であることは言うまでもない。酒井直樹氏の文章は、グローバル資本主義下の日米の大学の現状を批判的に捉えることから、その先へいたる糸口を模索している。
今回の問題をスルーしうると思っている者の基本的な心性は、だから、大事にいたる前に予防しておくにしくはない、というものだろう。多少の犠牲はいたしかたない、という次第である。しかし、それは統治形態としては予防と言われるかもしれないが、むしろ低温の火傷が知らず知らずに進行していくようなものなのである。微罪逮捕によって維持される大学や社会は、一見すると何事もないかのように、気持ちよく運営されている。しかしそれは、気持ちがいいと思っていた湯たんぽで、気づいてみたら、とりかえしのつかない火傷をしてしまうようなものだ。そのような現実的統治の進行が、実は、大学などよりもはるかに先行して、エロ、フーゾクの業界においてなされてきているということは、松沢呉一氏の文章で鋭く摘出されている。この提起は、今日におけるフェミニズムの総括的な問題ともかかわり、本書の多様な思想的ひろがりを示しているはずである。
もちろん、「知識人」と呼ばれることも多いであろう大学教員たちは、微罪逮捕がロクでもない予防だということも、大なり小なり知っているだろう(いや、百も承知かも知れぬ)。彼らのなかにはイラク戦争や憲法改正に(立川反戦ビラ入れ事件にさえ)、反対の声をあげる者も少なからずいる。だとするなら、彼らは今ここの低熱湯たんぽの心地良さに負けていると言えようか。だが、そんなことで彼らが公表する言論を誰が信じるというのだろう。
別段、リゴリスティックに「言行一致」を強要しようというのではないし、「疚しい良心」を突こうというのでもない。言行不一致は世の常だし、疚しい良心を完全に払拭することも不可能であろう。だが、まがりなりにも「知識人」であることを自他ともに認めているのであれば、シニシズムをこえて何らかのアクションがなされなければならないと言いたいだけである。本書にあっては、池田雄一氏や初見基氏の文章が、この問題を主題的に考察している。
だが、一方では「知識人の終焉」が言われて久しい。そして、それに代わるようにして、さまざまなサブカルチャー、カウンターカルチャーの問題がいやおうなく露呈してきている。このたびの早稲田大学での逮捕者も、別の大学における映画製作をつうじて、早稲田大学の当該団体と連携するようになっていった。また、大学のカリキュラム編成自体も、サブカルチャー的な要素を導入しないでは成り立たなくなっている。そのような側面から、シンポジウムにおける井土紀州氏の発言、宮沢章夫氏の文章が視点を提供している。
以上略述してきたように、本書が提出している問題は多岐にわたっている。もちろん、本書のみですべてが言い尽くされたというつもりはないが、早稲田大学のみならず、さまざまな闘争の現場で、本書が議論され利用されることを願ってやまない。
知られるように、早稲田大学の事件に際しては、国内のみならず海外からも、多くの抗議の声があがっている。それについては、ニューヨーク在住の高祖岩三郎氏に多大な尽力をいただいた。本書の寄稿者に、酒井直樹氏とマイケル・ハートが名を連ねえたのも、高祖氏の力によるところが大きい。また、ハートの翻訳については大脇美智子氏を煩わせた。多忙ななかを、それも緊急出版であるにもかかわらず、こころよく本書の企図に応じてくださった執筆者、シンポジウムでの発言者の方々に対してとともに、これらの方々にも深く感謝する。また、当該団体のメンバーには日々の闘争やアルバイト、勉学の合間をぬって、多くの作業を担ってもらった。
2006年3月31日
すが(糸圭)秀実
花咲政之輔