目次
はじめに●田中孝彦
第1章 学力論議の枠組みを変える
学習の主体は子どもたち自身である——「普通」の子どもの生活意識と学習への要求●田中孝彦
第2章 学力低下論争はいかに現象したか
語っているのはだれか、語られていないことは何か——学力低下論争とマスコミ・ジャーナリズム●斎藤貴男
学力テストにかく乱される学校現場と教師の努力——希望をうばわれる子どもたち●大谷猛夫
第3章 学力調査を読み解く
学力調査に見る日本の子どもたちの学力実態——最近のPISA・TIMSS・文部科学省の調査結果から●田中耕治
学力問題の社会的性格——子ども・若者たちは学校知識のレリバンス回復を求めている●久冨善之
第4章 人生を生きる学力
人生を味わう力をはぐくむ●福島 智
子ども・親の願いを学力にむすぶ——仲間のなかで学びの世界を広げる子どもたち・学びを支える親のつながり●渡辺恵津子
どんな子どもにもある学ぶ意欲に応え学習の権利を保障する——特別支援教育と障害のある子どもの学力問題●茂木俊彦
第5章 学力論の新しいステージへ
教育における「力」の脱構築——〈自己実現〉から〈応答可能性〉へ●岩川直樹
「弱さ」の哲学から語る学力——「強さ」の学力から「弱さ」のリテラシーへ●田中昌弥
あとがき●久冨善之
前書きなど
はじめに
学力論議の枠組みを変えるための試み
中山成彬文部科学大臣は、さまざまな場所で、次のような発言をくり返している。子どもたちのあいだに「競争意識」を涵養し、「世界のトップレベル」の「学力」水準を確保する。そのために「ゆとりの教育」「総合的な学習の時間」「学習指導要領」を見直す。日本社会を、各地域・各学校が「学力向上」を軸とした「人材育成」を競い合う状態にする——彼は、国家主導で「競争」を「活性化」することによって、「学力向上」「教育改革」を実現できると考えているようである。
このような問題の認識と対処の枠組みは、20世紀の末から21世紀のはじめにかけてのこの十余年の日本において——それは「新自由主義」的な諸施策が本格的に展開されてきた時代であったが——、社会の表面に浮上してきた「学力低下」論・「教育改革」論の共通項をくくったものである。こうした枠組みは、すでに広く教育行政担当者に浸透しており、それに基づく「改革」は、学校教育の「形式化」「空洞化」をもたらし、子どもや親や教職員たちに大きな影響を及ぼしながら実際に進行してきている。
今の日本の子ども・若者たちは、そうした社会と学校のなかで生きて成長してきた。もし、彼らの学習・学力の状態をほんとうに心配するのであれば、まず、検討されねばならないのは、こうした認識と対処の枠組みそのものではないだろうか。問い直されるべきは、現職の文部科学大臣の発言に代表されるような「学力低下」論・「教育改革」論の枠組みではないだろうか。本書の10人の執筆者は、職業も専門領域も「学力」ということばへのスタンスも異にするが、共有しているのは、今日の「学力」論議・「教育改革」論議のこうした枠組みそのものを問い直す必要があるという問題意識である。
本書では、今日の「学力」論議の枠組みを組み換えるために、どうしても必要と思われる次のようないくつかの企てを試みている。
1 「学力調査」を読み解く
前述のような「学力低下」論・「教育改革」論は、2004年12月に経済協力開発機構(OECD)と国際教育到達度評価学会(IEA)の二つの国際学力調査で、日本の子どもたちの「学力」に低下傾向が見られるという結果が発表されたことをきっかけに、一段と強く叫ばれるようになった。この間のマスコミ報道も、全体として、「日本の子どもの平均学力の低下」「『ゆとり教育』の見直しの必要性」という表面的な論調に流れ、そうした枠組みを強化するはたらきをしてきた。
しかし、今回のOECDとIEAの学力調査の目的・性格には大きな違いがある。また、長年議論されてきたように、従来のIEA調査の結果に見られた日本の子どもたちの「高学力」には、大きな質的問題が含まれていた。そもそも、この二つの学力調査の結果を一括して、そこから、日本の子どもたちの「学力低下」を断定し、「学力向上」対策を導こうとする論理には、かなり無理があるのである。
そこで、本書では、この二つの国際学力調査の性格の違いを考えてみること、二つの調査結果に表れた日本の子どもたちの「学力」の状態を分析してみること、現代世界において「学力調査」がこれほど関心をもたれるようになった理由とその問題性を考えてみることなどを含んで、この二つの調査に代表される今日の「学力調査」を読み解いてみようとしている。
2 子ども・若者の生き方への問いと学習への要求を受けとめる
現代の日本の社会には、子ども・若者たちの生存・成長・学習を支えて生きて働いている、父母・住民、発達援助の専門家たち、教職員たちがいる。それらの人々の臨床的ともいうべき実践の報告や発言から伝わってくるのは、数量的な「学力調査」が伝える情報とはかなり異なっていて、今を生きる日本の「普通」の子ども・若者たちが、「いらだち」「不安」「恐れ」をためながら、「どう生きていったらよいのか」という生き方への問いを発しているという姿である。そして、彼らが、自分の生き方と地域・社会・世界のあり方を考えながら生きていくための教養・学習の機会を、切実に求めているという事実である。
本書では、こうした生存・成長と学習の当事者である日本の子ども・若者たちの声に耳を傾け、彼ら一人ひとりの生活史・生育史を、彼らとともになぞる作業をしながら、彼らの生活感情・生活意識・幸福感と学習への要求のありようを確かめ直そうとしている。そして、「普通」の子ども・若者たちの生き方への問いを受けとめ、自己と世界のあり方を考えるための学習への要求を発展させるということを基軸に、今日の「学力」論議の枠組みを組み換えようとしている。
3 教師たちの模索に光を当て、教師たちが参加する「学力」論議へ
子ども・若者たちが発している生き方への問いと学習への要求すべてを学校で受けとめることは不可能である。しかし、彼らは、学校生活とそこでの学習に対して、手応えを感じられるものを求めていることは明らかである。
そして、日本の教師たちのあいだには、今日の子ども・若者たちとともに歩みながら、彼らの「不安」や「恐れ」を受けとめ、彼らの生き方への問いと学習への要求を発展させる教育実践・学習指導を模索し続けてきた教師たちがいる。そして、そうした模索のなかから、一人ひとりの子どもの生活史・生育史を深く理解し、子どもが必要とする人間関係を支え、子どもの生き方を支える学習指導を展開する、新しい教育者像も芽生え始めている。
今日の「学力低下」論・「教育改革」論は、日本の教師を全体的に「指導力低下」と決めつけがちである。これに対して、本書では、教師たちの世界の動向により注意深い関心を向けながら、「学力」論議の枠組みを考え直してみようとしている。「学力」論議は、学習指導の当事者である教師たちの模索に関心を向け、教師たちが正当な位置を占めて参加するものに変わらなければならないはずだからである。
4 「学力」を問い直すおとなたちの動きへの着目
今日の日本の親・おとなたちは、「競争」「自己責任」を強調する「新自由主義」の浸透のもとで、子どもの将来の幸福を思えば、「競争」のなかである程度の位置を占めることのできる「学力」を子どもに身につけさせたいと願わないわけにはいかない。しかし、同時に、切り裂かれる人間関係のもとで、幼いころからさまざまな「傷」を負いながら成長していく子どもの姿に接して、子どもが共同的な関係のなかで安心して学ぶことができ、自分自身の内部に根拠をもって学習にとりくんでいける教育を求めざるを得なくなってもいる。
多くの「普通」の親たちのあいだで、こうした矛盾が深まってきており、各地域では、親・住民たちのあいだで自らの子育て観・学力観を問い直す論議が起こらざるを得なくなっている。そして、そうした論議のなかでは、子ども・若者が自らの生活経験に基づき自らの生活を考える「学力」と、世界のどこに行っても通用する「学力」とは対立しないのではないか、その二つを統一的に実現する教育実践・学習指導がありうるのではないかといった、きわめて本質的な問いも生まれてきている。
本書では、「学力」論議の枠組みの組み換えを、理論的枠組みの組み換えの問題としてだけではなく、現代日本のどの地域でも起こる可能性のある、父母・住民による子育て観・学力観の問い直しをめぐる論議を、現実に広げ深めていく課題として考えようとしている。
5 「学力格差」への向き合い方を考える
現代の日本社会では、「学力格差」の問題といってもよいが、「階層化」の進行を背景にして、学校の学習に簡単には立ち向かえない状態におかれている子どもたちの存在が、新しく社会問題化してきている。そして、こうした一群の子どもたちの出現は、「強い力で秩序を要求する」「きびしい競争的環境におく」「基礎学力を刻み込む」といった主張の理由にもされている。
しかし、こうした子どもたちは、生育の過程で何重にも心身に「傷」を負わされてきた場合が多く、単純な「きびしさ」「競争」「刻み込み」という対応だけでは、彼らの生存・成長と学習を支えきれないことがほとんどである。彼らには、「傷」「不安」「恐れ」を受けとめてくれるおとなや安心してつきあえる友だちと出会える学校が必要であり、彼らの問いをたいせつにし、そこから出発する学習を経験させてくれる教師たちが必要である。
本書では、「学力」の「格差化」の現実を見据え、その問題に正面から向き合う教育と教師のあり方を考えようとしている。
6 世界の教育改革とつながる
「今のカナダ社会では、子どもに対する種々のテストや教育プログラムが開発され流通しています。そうした既存のテストを実施し、既存のプログラムを実行していれば学校教育が済んでしまうほどです。しかし、私たちは、教師の仕事には、それに尽きないものがあると考えています。それは、子どもを全体的に深く理解する(understanding children totally and deeply)ということです」
これは、私が、「臨床教育と教師教育の改革」の共同研究の一環として、2004年の晩秋に、カナダのトロントを訪ねた折に、トロント大学の小さな附属小学校(教育実践の研究と教師教育のセンターでもあった)の校長から聞いた、印象深いことばの一つである。
今、世界に目を向けると、たとえばこのように、「競争」「効率」「自己責任」を強調する「新自由主義」的な教育「改革」の流れに抗するようなしかたで、一人ひとりの子どもを全体的に深く理解しようとする努力と、その支えのもとに子どもたちが「自己」と「世界」に対する全体的理解をじっくりと深めていけるような教育実践・学習指導の模索とを軸とする、教育改革の動きが一つの潮流となろうとしている。
本書の基底を流れているのは、特定の動きの安易なモデル化に陥らないように自戒しながら、今日の日本の「学力」論議・「教育改革」論議の枠組みを問い直し組み換えるために、こうした世界の教育改革の動きに目を向けようとする関心であるといってよい。
7 希望をつむぐ学力へ
以上、本書が立っている状況判断や、試みようとしていることのいくつかを、私なりに記してみた。これを、読者の方々が、今の「学力」論議の枠組みを組み換え、日本の子どもたちの希望を支える「学力」のための論議を広げ深める、一つの材料にしていただければ幸いである。
2005年8月
田中 孝彦