目次
序
イエスの生誕
イエスの母マリア
イエスの信仰
イエスの出発
イエスとヨハネの会見
イエスとヨハネの差異
最後の試み
悪魔
なんじら、悔い改めよ。天国は近づけり。
ペテロとアンデレ
イエスの布教
マグダラのマリア
マルタの妹マリア
ユダの章
イエス、弟子の足を洗う
ゲッセマネの園において
囚人イエス
十字架上のイエス
十字架について
初版『イエス記』の後書として
前書きなど
初版『イエス記』の後書として
習作ばかりを、こころがけたわけではなかったが、ほとんど、イエスの素描しか、えがくことができなかったとおもう。白描といってもいいのかも知れぬ。はなはだ、不満足な結果であり、上梓にあたって、あまり、よろこびをもつことができない。わたくしは、この作品を、不幸な人間キリスト記あるいは、つたない人間記とよびたいとかんがえている。
わたくしが空想したようなキリストを表現するためには、その態度と構想になお不足していたとおもう。
計画と空想ばかりが、おおきかった割合に、できあがった仕ごとのちいさなことをかんがえると、文学の仕ごとが、空想や、情熱ばかりでできあがるものではないことを、あらためて、かんがえないわけにはゆかぬ。仕ごとがおわったあとで、あたらしく、文学の立場をかんがえないわけにはゆかぬ。
空想や、情熱というものは、わずかに針さえうごかす力のないもので、人間にとって、はかない詩であることを意識しないわけにはゆかぬ。空想は、影絵、情熱は無形の詩である。紙のうえに、ペンの力をかりて、あのはてしない人間苦をあらわすことができるものは、ほかにある。むしろ、情熱をあらわすことのできるものは情熱ではなく、虚無に堪える冷徹な心だとおもう。文学の仕ごとが、このまずしい心の努力だけにすぎないことを、まざまざ、悟るようにおもう。
このキリスト記において、わたくしは、わたくしが、かきあらわしたいと考えていたキリストの人間性を、すべてかきつくすことができたと考えているものではない。むしろ、わたくしは、イエスの人間性をかきあらわすつもりでいながら、詩人、あるいは、神の子だけしかかけなかったものではないかとうたがっている。むしろ、人間とは、優美な神の子より、さらに、逞しく、さらに、たかく、暴風雨(あらし)のようなはげしい声をもっている荒々しい実在のように考えられた。あらためてこの“人間”について、おもいあたるところがあるようになったつもりである。
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人間の生きてゆくことのできる道は、けれども、半面では、また、おろかしさにみちているまずしい道だともいえよう。暴風雨(あらし)の去ったあとで、道のうえに落ちている土塊(つちくれ)。道のうえにおちている落葉(おちば)。小石。ぼろ屑。紙片(かみきれ)。糞土(ふんど)。現実。ただ、それほどのものを手にとってみることが人間に許されているものかも知れぬ。かえって、至上の“神”をみることは人間に許されてはいないものかも知れぬ。
人間のすすんでいい道は、このはかない道で、人間のもとめ得るすべての心はこの道をすすむたくましい心だけである。
あるいは、わたくしが、この作品において、イエスに、“人間”をかんがえようとしていたところに、わたくしの文学的常識がかくれていたのではないかとかんがえている。人間は、ただ個人の力だけではあのふかい道をたどり得るものではないとおもう“信仰”がある。
わたくしは、この意味からいって、この作品のなかで、イエスとの戦いにやぶれ、かすかながら、額に、十字架の刻印をうたれていたものとかんがえている。
わたくしは、この作品をつくりあげた後で、こんな気持で、イエスのこと、それから、わたくしのことについて、じっと、考え耽っている姿である。わたくしは、わたくしに、人間的脳髄を意識する。人間的存在を意識する。わたくしは、自分のかかるおろかな人間性を発見したおどろきと、イエスに、意外な神性と奇蹟とを発見したことにおどろいているものかも知れぬ。
けれども、わたくしは、おろかな人間になりたいとはかんがえるけれども、この不思議な刻印故に、神の子の信者になりたいとは思わない、わたくしは、まだ、この懐疑と闘う勇気をもっている。わたくしは、完全な人間になりたいとおもう。
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このイエス記において、人間をえがいてゆくことに、わたくしは、かく失敗したわけだが、けれども、この仕ごとにおいて、わたくしは、わずかばかりのことをなしとげたと信じている。それは、わたくしが、イエスをひとりの虚無主義者(ニヒリスト)として眺めたことであり、この面から、わたくしは、すこしばかり、イエスをえがくことができたかも知れぬとかんがえている。そんなやり方で、わたくしは、意識して、わたくしの虚無(ニヒル)と倦怠(アンニュイ)とを清算しようとかんがえていたわけでもあるが、わたくしは、この作品をかき、また、何回も読みかえしているあいだに、むしろ、このイエスのように、虚無と倦怠のなかから歩きだしてゆくことが正しいことだとかんがえるようになった。虚無と倦怠をすこしでもじぶんにゆるそうとかんがえることは、かえって、虚無と倦怠をおおきく成長させることにすぎない。おちついて手のなかの虚無をながめ、おちついて虚無をたたかいとる。
むしろ、わたくしの精神は、雷鳴をともなって、戦いに、はげしくなりはじめた。
あるいは、この作品において、わたくしが、明確なエッセイストの態度をとって、この虚無について、考えた方が形式としてよかったものかも知れないが、懐疑しているイエス、疲れはてているイエスの甦生をはかるかたわら、その虚無(ニヒル)と懐疑を表現したいと努力したところに、この作品は、わたくし個人として捨て石の意味をもっているつもりである。わたくしは、イエスを“えがく”ことよりも、あるいは、わたくし自身を清算することに、懸命でありすぎたものかも知れない。わたくしは、この作品ではなにもかもやった。
おろかなわたくしは、所詮、純粋な青い鳥をもとめて、型のごとく、現実の醜い壁にうちあたり、その無限空想の翼を折られ、はじめて、「神と情熱の欺き」をみずから信ずるようになった男かも知れぬ。ただ、わたくしの人生は、この醜悪な現実から始まるものだと考えている。
散文とは、純粋詩人がその夢をやぶられ、神の翼を折られたところにはじまるものだとおもう。
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わたくしが、欲望をもっていたのにかかわらず、この仕ごとのなかでかきのこしたものは、かなり、沢山ある。
ユダの前身についても、その侘しい生活についても、マグダラのマリヤの信仰についても、かきたいものは、まだたくさんのこっていた。イエス最後の晩餐のにぎやかな風景、そのこまかな心理描写など、わたくしにとって、魅力は、すこぶるおおきなものがあったが、この作品においてはそれらを割愛するような結果になった。
ある外国の作者は、十字架降下後のイエスについて、ある見方をかきくわえ、甦生後の人間イエスのなりゆきをかたっている。その考え方は、かならずしも、わたくしの満足をかうものではなかったが、その手法をかり、甦生後、キンネレテの湖畔で、使徒とかたる「慈顔のキリスト」をえがくことも魅力のおおいものがあった。この場合のイエスは、はじめて、人間的なすべてをなしはたした美しい幻影のイエスであろう。十字架のうえでながしたみにくい血が、はじめてイエスの心に神の笑顔をあたえた。
「狡智な人間としてのイエス」こんな題目で、イエスのある面をのぞくこともできるようにかんがえた。イエスと奇蹟についても、かいていい材料はありすぎるほどあるといっても誇張にはならぬとおもう。
神の子イエスは、また、事実においては、神の子とみずから称したことはなく、つねに、人からの忖度を意識した。そのあたりに、かえって、心に厳粛なイエスをかんがえることもできる。そんな数行を聖書のなかで読むこともできた。
ふたたび、これらの材料から、イエスをかく日がくるかもしれぬとかんがえてはいるが、このキリスト記においては、すべてを割愛し、そのまま、未完成の終止符をうつことにした訳である。
この作品をかきあげたあとで、イエスに、あたらしい見方をおぼえるようになったところもおおかった。むしろ、わたくしは、ものの見方が、無限に発展してゆくこと、流転してゆくことを、まざまざとわたくしに感じないわけにもゆかなかった。生きている人間として、已むをえないことである。
作者は、このように、かならず、作品をつくりあげたあとで、あたらしい意見をもつようになるものかと考えるが、この作品は、そんな意味では、また、わたくしのはかない脱皮になっただけかも知れぬ。
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さいごに、文章として、わたくしは、この作品に、できうるかぎり、削正(さくせい)の筆を加えたつもりである。この不満のおおい作品のままに、筆のとまるところまで、疑惑の停止するところまで推敲のかぎりをつくした。これは、おろかなことではあるが、わたくしは、かかる苦しみのおおい方法によって、わたくしの懐疑を磨滅し、ひとつの文章道を発見したいとかんがえていたからなのにすぎない。
むしろ、わたくしは、わたくしの病癖というのに近いこの執拗な方法によって、わたくしみずからを、単純な文章世界に開放したかったのである。
また、わたくしはこの作品を、ほとんど、百回ちかく読みかえしている。一字一句についても、綿密な推敲をくわえたため、その全文を誦(そら)んずるようになっているところさえあり、むしろ、この作品が、もっとも駄作にちかいものであることを、その故に、自信をもって言い放ちうるつもりである。
冊紙コギトに連載したときの文章と、異っているところのものがあるのは、以上のべたように、このおろかな削正の結果である。表現に対するわたくしの微意にあるのみ。
なお、末筆にのぞんで、疎懶なわたくしを、いろいろ、激励してくれた諸友に対して、深く感謝の言葉をのべておきたいとおもう。
第一書房主長谷川さんが、この微力なわたくしにあたえたもうた文学愛好の情熱にたいしても、ふかく敬意を表したい。わたくしは、ただ、わたくしのつたない作品を含羞するのみ。
千駄木町において 著者